雨の似合う花が咲いています。
苔の絨毯に佇む仏さまも、優しいお顔をなされています。
今月の『高尾山報』は「創刊700号」「佐藤秀仁貫首晋山記念特集」となっています。
こちらが表紙です。
穏やかな春の日の厳かな記念のお写真です。
ますますのご加護とご繁栄をお祈り申し上げます。
さて、今月の『高尾山報』「法の水茎」は「心」(慈悲心)がテーマです。「無財の七施」の五つ目は「心施」。眼差しや表情、言葉や振る舞いのもととなる清らかな慈悲心について考えてみました。お読みいただけましたら幸いです。
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「法の水茎」119(2022年5月号)
季節は晩春から初夏へと移ってきました。新緑が眩しい木々の梢を、爽やかな薫風が吹き渡っています。
我が宿の八重山吹は一重だに
散り残らなん春の形見に
(『拾遺集』よみ人しらず)
(我が家の八重山吹の花は、一重だけでも散り残ってほしい。春の形見になるように)
穏やかな春は、いったいどこに行ってしまったのでしょう。春爛漫の記憶はそのままに、鮮やかな山吹も、高貴な藤の花も、いつしか色あせて散りゆきました。この「我が宿の」の歌のように、せめて一片(一重)だけでも春の名残をとどめつつ、長閑な春の人心を持ち続けたいと念じます。
平安時代に、源宗于(みなもとのむねゆき)(?~940)という貴族が、歌人の紀貫之(きのつらゆき)(866~945)に歌を贈りました。
よそにても思ふ心は変はらねど
相見ぬ時は恋しかりけり
(遠くにいてもあなたを思う気持ちは変わらないけれど、お目にかかれないときにはいっそう慕わしく感じられます)
お互いに、しばらく顔を合わせなかったのでしょうか。離れていても貫之のもとへと憧れ出ずる心が、一人の時間によってさらに募っているかのようです。
宗于(むねゆき)の思いを受けて、貫之もまた歌を返しました。
桜散り卯の花もまた咲きぬれば
心ざしには春夏もなし
(『貫之集』)
(桜が散って、卯の花がまた咲いたので、あなたに寄せる思いには春も夏もありませんよ)
「卯の花」の「卯(う)」には、「憂(う)し」(つらい)という意味も掛けられているでしょうか。この「桜散り」の歌には、桜から卯の花へと季節は移ろっても、あなたに会えない苦しさと好意は変わらないという思いが詠み込まれています。冒頭の「一重(ひとえ)」ではありませんが、相手を一途に思い込む心を「偏心(ひとえごころ)」と言います。宗于(むねゆき)の心を汲み取り、貫之がその偏心(ひとえごころ)に巧みに唱和した歌と言えるでしょう。
今回は、こうした「心」をめぐる布施行(ふせぎょう)について書いてみたいと思います。「無財(むざい)の七施(しちせ)」の五つ目は「心施(しんせ)」という教えです。「人々に喜びを与え、苦しみを取り去るという慈悲(じひ)の心」です。
「心施」について、「無財の七施」を説く『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』には「以上の事を供養すと雖も、心和善せざれば施と名付けず。善心和善し、深く供養を生ずれば、これを心施と名付く」と見えます。「以上の事」というのは、これまで取り上げた「無財の七施」のうちの「眼施(げんせ)」「和顏悦色施(わげんえつじきせ)」「言辞施(ごんじせ)」「身施(しんせ)」の四つを指すのでしょう。心が「和善」(善良)でなければ、行動を起こしたとしても「施」とは言わず、「善心和善」(清らかな慈悲心)による深い供養(奉仕)を行ったときに「心施」となると説いています。自らの「善心」と結びつかなければ、それは表面的なものとなってしまうという戒めでしょう。
とは言うものの、自分だけが良かれと思って行動しても「独(ひと)り善(よ)がり」となってしまいます。時には親切心が仇となって「ありがた迷惑」と受け取られてしまう場合もあるかもしれません。どのようにすれば、自分以外の気持ちを理解できるようになるのでしょうか。
「心配」という言葉があります。「心配り」に当てた漢字を音読したもので、「心遣い」や「気遣い」を表します。古くは「心しらひ」と呼ばれ、例えば『源氏物語』「葵」に「思ひやり心しらひて」(注意深く心遣いをして)と見ることができます。相手を気に掛ける「心配り」は「心施」の教えとも通じるところがあるような気がします。
こうした気配りをめぐっては、次のような話が伝わっています。
平等院僧正行尊(ぎょうそん)(1057~1135)は、仏道で尊いお方というだけではなく、世間の事柄にも心が行き届いていました。
鳥羽院(1103~1156)の御持僧(ごじそう)として仕えていた時のこと。内裏(天皇の住居)で管絃の遊びが始まり、琵琶や箏の琴などさまざまな楽器を演奏する人々が召されました。
会の中頃になって、左大臣が弾いていた琵琶の緒が切れてしまいました。すると行尊は懐から琵琶の緒を取り出して差し上げました。そのお陰で、左大臣は一晩中奏でることができたのでした。
これは昔、宇多法皇(867~931)の御幸(外出)の日に、藤原定国(866~906)という貴族が、烏帽子(えぼし)(男性の冠物(かぶりもの))を落としてしまい、如無僧都(にょむそうず)(867~938)という僧侶が、持っていた箱から別の烏帽子を取り出したと伝わりますが、行尊の心配りは、それに劣らないほどの奥ゆかしい逸話と言えます。
(『十訓抄』)
行尊の細やかな配慮は、日々の仏道修行によって培われたものなのでしょうか。他人の苦しみは自身の悲しみ、他人の楽しみは自身の喜びという思いが、行尊の心の鏡を磨いていたのかもしれません。清らかな慈悲心から放たれた眼差しや表情、言葉や振る舞いは、さぞかし美しく麗しいものであったことが想像されます。
四海の民を
思ひやるに、
われ、ひとり
暖かなるべからず。
(『十訓抄』)
(世の中の人を思いやれば、私一人だけが暖かにしていられない)
一生に一度の出会いと心得ることを「一期一会(いちごいちえ)」と言います。二度と巡ってこない瞬間に相手と誠心誠意語り合えば、やがてお互いの心根(こころね)(心の底)が仄見えてくるでしょうか。宗于(むねゆき)と貫之(つらゆき)が心を通わせたように、私も周りのあらゆる声に耳を傾けつつ、心からの慈しみを抱いていきたいと思います。
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最後までお読みくださりありがとうございました。