坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「楽」のお話①~お釈迦様の生き方、降り注ぐ花びら~「法の水茎」20

春は黄色い花から咲き始めるといます。
そろそろ春本番を迎えて、お寺の庭には色とりどりの花が芽吹いてきました。

f:id:mizu-kuki:20190405112805j:plain

白い花

これは、コブシでしょうか、白木蓮でしょうか。
新春の青空に白が映えます。

今回の文章は「楽」をテーマに、お釈迦様の生涯や、空から降り注ぐ花びらについて書いてみたものです。

そういえば、先日の1周忌のご法事で、仏前に満開の桜を供えられた方がいらっしゃいました。故人の女性が、桜の咲くのを心待ちにしながら息を引き取ったとのこと。今年は事前に業者にお願いして、早めに桜の満開にして屆けていただいたそうです。檀上のお写真も、心なしか嬉しそうな、微笑んでいる表情に見えました。


    ※      ※

「法の水茎」20(2014年2月記)


  袖ひちて むすびし水の 凍れるを 春立つ今日の 風やとくらんむ
                        (『古今集』紀貫之)
(いつの日か袖を濡らして掬った水も、冬の間はすっかり凍っていた。それを春が立つ今日の風が解かしてくれているだろう)

 暦の上では立春(春の始め)を迎えたものの、まだまだ底冷えする日が続きます。旧暦2月は「如月」とも呼ばれますが、それは寒さのために衣を重ね着する「衣更着」からとも、草木が再生することをいう「生更ぎ」から来た言葉とも言われます。すぐにポカポカ陽気とはいかなくても、春浅き樹木の芽吹きの中に、確かな春の到来を感じます。東風(春に吹く東の風)を肌に受けながら、人の心も身体も、緩やかに春めいてくる時節と言えるでしょう。

 旧暦2月15日は、お釈迦様が入滅(仏が亡くなること)なされた日です。高尾山薬王院においても、亡くなる場面を描いた「仏涅槃図」を拝みながら、お釈迦様の恩徳を思い慕う「釈尊涅槃会」が執り行われます。

 仏涅槃図を拝すると、お釈迦様が頭を北にして、顔を西に向け、右脇を下にして臥しておられ、四方には沙羅双樹と呼ばれる木が生い茂っています。その周りには仏弟子から鳥・獣・虫・魚に至るまでの生きもの(52類)が集まって悲しみに暮れ、空には煌々と照り輝く満月が描かれています。

 かつて私も、お釈迦様が入滅なされたインドのクシナガルという聖地を訪れたことがあります。幹の途中から二股に別れるという沙羅双樹の林を抜けると、白塗りの寺院(涅槃堂)が立ち現れ、お堂の中には金色のお釈迦様が横たわっておられました。私も多くの巡礼者とともに祈りを捧げていると、いつしか辺りは夕闇に包まれ、沙羅双樹の葉がその名の通りサラサラと擦れ合っていました。

 お釈迦様は、29歳で出家(俗世間を捨て仏道修行に入ること)し、35歳で悟りを開きました(成道))。80歳での入滅の瞬間は、周囲にあった沙羅双樹の木々が一斉に花を咲かせるや否や、たちまちに白色に変じて枯れ果てたと言います。それはまるで純白の鶴の群れのようであったことから「鶴林」とも呼ばれました。

 ところで、お釈迦様は若くして悟りを開き、迷いから解放されたにもかかわらず、どうして大勢の悲しみに看取られながら身を滅ぼしたのでしょうか。それは、人々に「生者必滅」の道理を示そうとしたためと言われています。「生者必滅」とは、

  始有り、終有るは、この世の常の理なり。
  生ある者は必ず滅す。
  即ち人の定まれる則なり。
       (空海『性霊集』)
とあるように「命あるものには必ず滅する時が来る」というものです。終りがあるからこそ、今この一瞬をどう生きるのかが問われてくるのでしょう。

 多くの仏涅槃図には、夜空に月が浮かんでいます。お釈迦様と月との結びつきを語る「月の兎」伝説については、昨年の「高尾山報」(第589号)に書かせていただきましたが、それは少しも欠けることのない円かな満月です。死によって御身は滅びても、それは「迷いの苦しみを乗り越えた死」(滅度)であったのです。

 涅槃会は「如月の別れ」とも呼ばれ、結縁(仏様と縁を結ぶこと)したいという思いから「如月の仏の縁」という言葉も生み出しました。

 お釈迦様を偲び理想とする人々の中には、あの西行法師(1118~1190)もいます。

  願はくは 花の下にて 春死なん その二月の 望月のころ
                  (西行『山家集』) 


 西行を代表する和歌の一つです。2月の望月(満月)とは、まさにお釈迦様の命日である2月15日を指しています。

(願うことなら、花の下で春に死にたいものだ。釈迦入滅の2月15日の頃に)

 西行は望み通り、文治6年(1190)の2月16日に73年間の生涯を閉じました。歌にある「花」とは、沙羅双樹でもあり、西行が大好きだった桜の花でもあります。その日は、新暦(太陽暦)では3月下旬に当たりますが、果たして桜が咲き誇っていたのかについては定かではありません。きっと満開・満月の中での、満ち足りた最期であったのではないでしょうか。 


 『山家集』には、「願はくは」に続けて次の歌が並べられています。 

  仏には 桜の花を 奉れ 我が後の世を 人弔はば
(仏様には桜の花を捧げなさい。私が亡くなった後の冥福を祈ってくれるなら)

 今も西行が眠る墓の周りには、たくさんの桜が植えられています。お釈迦様を祈り、仏道に精進した人の頭上には、春の香りある風に誘われて、いつまでも随喜の花が降り注ぐことでしょう。

     ※      ※

最後までお読みくださりありがとうございました。