坊さんブログ、水茎の跡。

小さな寺院の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。普濟寺(普済寺/栃木県さくら市)住職。

「怒り」のお話②~ありのままの心で、ゆるして~「法の水茎」19

庭先を歩けば、あざやかな赤色が目に飛び込んできます。

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冬の名残


お正月からの名残です。万両でしょうか。
千両と万両と南天の違い。。。ぱっと見では、なかなか難しいです。

今回の文章は「怒り」をテーマに、なぜ不動明王が恐ろしげなお姿をしているのかについて書いてみたものです。
「怒」(いかる)と「恕」(ゆるす)の漢字は似てますね。

  ※      ※

「法の水茎」19(2014年1月記)



  新しき 年の始めの うれしきは 昔の春も かくやありけん
                          (『朝光集』)
(新しい年の始めが嬉しいのは、昔の春も、このようだったのでしょうか)

 お正月には、門松を依り代(神霊の寄りつくもの)として年神様をお迎えし、この一年の安全と豊作を祈ります。「うれしい」という気持ちには、年が改まった「晴れやかな心持ち」と、今年も新年を迎えられたことへの「感謝の心」が込められているのでしょう。

 高尾山薬王院においても、元日は大山隆玄御貫首大導師のもと「新年特別開帳大護摩供」が執り行われ、世界平和や万民(ばんみん)豊楽(全ての幸せ)、五穀豊穣や無病息災などの諸願が祈られます。山に集った方々も、一歩一歩参道を踏みしめながら御本尊の御前に至り、静かに手を合わせ、心の中の思いを有りの儘にお伝えします。

 こうした祈りの光景は、もうどれくらい続いているのでしょうか。これまでにどれほどの祈りが御宝前に捧げられたのかと思うと、「昔の春も かくやありけん」の歌のように、今この場にいることの尊さと有り難さが湧き上がってくるようです。高尾山は、幾世紀にもわたる「祈りのお山」そのものと言えるでしょう。

 御本尊飯縄大権現は、不動明王の化身(仮の姿)として、五相合体のお姿をされています。背に火焔(炎)を負い、右手に剣、左手に索(大縄)を持って、決して魔縁(人を惑わすもの)を寄せ付けることがありません。

 不動明王の御利益をめぐっては、次のような話が伝わっています。

 昔、信州(今の長野県)に尊い上人(学問と徳行を備えた僧)がいました。長年にわたって山中で修行をし、多くの弟子も付き随っていました。

 そんなある日、上人は重い病にかかります。弟子たちが集まって看病をしますが、上人の目つきはどんどん怪しくなり、心も普通の状態ではなくなってきました。弟子たちは魔障(仏道修行を妨げる障り)の仕業と思い、慈救呪(不動明王の真言の一つ)を唱え、一心に不動明王を念じ続けたのでした。

 その中に、真心を持った行者がいました。頭から黒煙を上げ、身体から汗を流して、声の限り陀羅尼(真言)を唱えていました。するとその行者は、急に大きな溜息をついて、何も言わなくなりました。周りの弟子たちがその理由を尋ねると、次のように語ります。「上人の仏道を邪魔しようとして、多くの魔縁が見えたので、至誠心(真実の心)を発して無心にお経を唱えていました。信心が骨まで徹ると思われた時、そこに不動明王が立ち顕れ、魔縁を追い払いなさるのを見たのです」と。すると上人も本来の心に戻り、目つきや様子も直って、穏やかに臨終(死に臨むこと)の用意を始めたのでした。
            (『沙石集』巻2「不動を念じて魔障を払ひたる事」)

 弟子たちの必死の祈りが魔縁を追い出し、上人も本の心に戻ることができました。感動の念に息を呑み、何も言えなくなった行者は、居並ぶ僧侶の中でも、とりわけ真実(真如)の心を宿していたために、不動明王のお姿を見ることができたのでしょう。

 目覚めてからの上人は、心が落ち着き安らかになりました。これはおそらく、自分のために大剣を揮るい、諸々の魔障を追い払ってくださっているお姿を、間近で目撃したからなのではないでしょうか。これまでの信心が聞き届けられたことを確信した、悦びの瞬間であったと思うのです。

 不動明王が「怒り」(瞋恚)のお顔をされているのは、人間が持つ激しい怒りや恨み、妬みや憎しみから来るものではありません。

  悪の上に悪を加る事を悲で、
  彼を対治せんが為に方便して誡を加る也。
                            (無住『妻鏡』)
とあるように、寧ろそうした煩悩(人間を迷わせるもの)を引き起こす魔縁を消すために、敢えて方便(手段)をもって教え諭しているのです。

 時に、「怒」に似た漢字に「恕」があります。「恕」は「自分を思うのと同じように相手を思いやること」「思いやり」という意味です。不動明王の怒りの形相は、私たち人間を「恕すが故の怒り」と言えるでしょうか。

  過を恕して新ならしむる、之を寛大と謂ふ。
                 (空海『性霊集』)
(過ちを許して再生することを「寛大」(心が広くゆるやかなこと)と言う)

 「恕」という漢字を分解すると、「心の如し」と読むこともできます。人間が元々持っている「有りの儘の心」は、他人の痛みを理解し、許すことのできる「寛大な心」なのではないでしょうか。ご本尊様の怒りのお姿を拝しながら、その深奥にある恕(ゆる)しの炎を感じています。

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最後までお読みくださりありがとうございました。