坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「時間」のお話⑭ ~ 馬鹿正直とは、精進の前には賢愚なし ~ 「法の水茎」98

お墓には盆花が飾られています。

f:id:mizu-kuki:20200816063811j:plain


今日は送り日。
お盆はご先祖様とゆっくりと語らうことができましたでしょうか。

私の方はお盆期間の棚経を終えました。暑い3日間でした(廻れなかったお宅は、秋のお彼岸に参ります)。

今日からは寺参りのお檀家様をお待ちいたしております。


さて、今月の私の文章は、引き続き「時間」をテーマに、悩み多い現実世界(此岸)と、悟りの世界(彼岸)とを結ぶ仏の道について書いてみたものです。よろしければ、お読みいただけますと幸いです。

 

  ※      ※

「法の水茎」98(2020年8月記)

 

 

 7月上旬より日本各地で発生した集中豪雨は、長期間にわたって甚大な被害をもたらしました。まずは被害に遭われました皆さまに心よりお見舞い申し上げます。

  うちつけに 物ぞ悲しき 木の葉散る

   秋の始めを 今日ぞ思へば

          (『後撰集』読人不知)

(突然に何となく悲しくなってきたよ。木々の葉が散る秋の始まりが今日だと思うと)

 長かった梅雨時期が終わったかと思うと、いつの間にか残暑見舞いを送る時節となっていました。今年の立秋は8月7日。暦の上では秋を迎え、今年もすでに半分が過ぎ去ったことになります。

「秋風索莫(しゅうふうさくばく)」という熟語があるように、秋風が吹く頃になると、次第に自然の衰えが意識されて、何となく物寂しくなってくるものです。これからは少しずつ日も短くなって、朝夕の吹き抜ける風にも涼しさが感じられるようになるでしょう。

 この「うちつけに」の歌では、立秋の風が木の葉を散らす姿に切なさを感じています。もしかすると秋風は、心の奥底に仕舞い込んでいた本当の感情をも、そよそよと揺さぶっているのでしょうか。

 8月も中旬になれば、月遅れのお盆が巡ってきます。もともとは旧暦7月15日を中心とする日に行われていましたが、明治5年(1872年)11月9日の「改暦の布告」によって、東京などの大都市では新暦7月、その他の多くの地域では季節を合わせて新暦8月に行われるようになりました。また沖縄地方では、今でも日程が毎年変わる旧暦のお盆が続いているそうです。今年は閏月があったため、旧暦のお盆は9月上旬にずれ込んでいます(8月31日から9月3日)。このような違いを見るとややこしくも感じられますが、ご先祖様をお迎えする時期が増えたと思えば喜ばしいことでしょうか。

 お盆は、亡き人が「あの世」(彼の世)から「この世」(此の世)にお帰りになる期間です。旧暦7月1日は「釜蓋朔日(かまぶたついたち)」と呼ばれ、地獄の釜の蓋が開く日でもあり、一般的にはこの日からお盆が始まります。折り返しの7日(七夕)には精霊棚(しょうりょうだな)を作って、13日にお迎えし(迎え火)、16日にお送りします(送り火)。

 仏教では、あちらの世を「彼岸(ひがん)」、こちらの世を「此岸(しがん)」と言います。二つの間には「三途の川」と呼ばれる大きな川が流れていて、簡単には向こう岸に渡ることができません。彼岸と此岸には大きな隔たりがあるのです。

 「この世」では、時に自然の猛威によって、予期せぬ災害に見舞われることがあります。身も心も激しい悲しみに襲われることもあるでしょう。また自然災害のみならず、『徒然草』(第1段)に「いでや、この世に生れては、願はしかるべき事こそ多かめれ」(さても、この世に生まれてきたからには、誰でも願わしいことが多いようだ)と語られているように、この世には、例えば名聞(みょうもん)(名誉欲)や利養(りよう)(財欲)など、さまざまな欲望が渦巻いています。それらの煩悩は尽きることなく、絶えず私たちの心を苦しめています。全てが願い通りにならないのがこの世の常なのでしょう。

 「精進(しょうじん)の前には賢愚(けんぐ)なし」という諺(ことわざ)があります。「精進」とは「ひたすら仏道修行に励むこと」です。この世に生きていると、どうしても成功・失敗など、物事を区別して見てしまいがちですが、仏様の教えの前には賢人愚人の差別はありません。悩み多い現実世界(此岸)にいながら、悟りの世界(彼岸)と仏様の道で結ばれているのです。

 一見、愚かに見える人については、次のような話があります。

 愚かなことは、一時、他人から笑われているに過ぎない。俗世間で考えるところの愚かなことだから、他人から軽蔑されることは、罪障(悪い行い)が除かれる因縁(いんねん)となる。

 また愚か者は、おそらく正直である。ただ心に思うままに話し、振る舞い、お世辞を言うこともなく、人に気に入られようと媚(こ)びる気持ちもない。そのせいで、人から軽んじられ見下される。

 『金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)』には、「この世(現世)で人に軽んじられ、馬鹿にされれば、前世からの罪業(悪い結果を生む行い)が消えて、菩提(ぼだい)の悟りを得る」と説いている。古人が狂人のふりをして徳を隠したのは、この『金剛般若経』の意(こころ)に基づいたものだろう。自分の欠点を隠して、徳を現すのは、誠に仏道に反するものである。

          (『沙石集』)

 この世の辛さは、来世の種となっているのでしょうか。この話の中で、「愚か者は正直」と見えますが、正直とは「偏りのない素直な心」を表し、仏教では「束縛から離れた悟りの心」を意味します。安楽の世界へ続く道を「直道(じきどう)」(直路(じきろ))と言うように、欲望の寄り道を抑えつつ、まっすぐに歩み続けることが大切なのでしょう。

  この世の歎きは、

  後の世の

  悦(よろこ)びなるべし

          (『沙石集』)

(現世の哀しみは、きっと来世の幸せだろう)

 「馬鹿正直」を「愚直(ぐちょく)」と言います。ただ地方によっては、「愚直」は「仏様そのもの」を指すとか。絶望の岸に立ちながらも、なお己の信じる道を愚直に突き進む人を、お盆にお戻りになったご先祖様は、どのような眼差しで見つめてくださるでしょう。


     ※      ※

最後までお読みくださりありがとうございました。