集団で小花を咲かせています。
その名の通り可愛らしい手まりのようです。八重咲きのヤエコデマリも優雅です。
今回の文章は、十善戒の「不慳貪(ふけんどん)」をテーマに、我欲を離れて思いやりの心を持つことについて書いたものです。
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「法の水茎」53(2016年11月記)
いつの間に 空の気色の 変るらん
はげしき今朝の 木枯しの風
(『新古今集』国基)
(いつの間に空の様子が変わったのだろう。激しく吹き付ける今朝の木枯らしよ)
「木枯らし」の便りを耳にする季節となりました。「秋冬の風」(『八雲御抄』)とも言われる木枯らしは、秋の末から冬の初めにかけて吹く、強く冷たい北風です。草木の合間をヒューヒューと吹き抜けながら、もみじ葉を赤や黄色の秋色に染め上げ、そして散らしていきます。
木枯しの 風に紅葉て 人知れず
憂き言の葉の 積もる頃かな
(『新古今集』小町)
(木枯らしの風で紅葉するように、私の心もひそかに悲しみの紅に染まって、思い通りにならない嘆きの言葉が落ち葉のように積もる時節よ)
「木枯らし」は「焦がらし」に通じます。胸を焦がす切ない思いは、いつしか憂いの愚痴(憂言葉(うきことのは))となって積み重なるのでしょうか。フーッと吐いた長い溜息も、もしかすると木々を紅の涙色(悲しみの愁色(しゅうしょく))に色づかせてしまうかもしれません。身の回りの冷たさを実感する時期でもありますが、せめて心の中は落ち葉で包むように温かくして過ごしたいものです。
「思いやりのない冷淡な心」を、仏教語で「慳貪(けんどん)」(慳心(けんしん))と言います。「慳(けん)」は見慣れませんが、多くお経に見られる漢字で、「惜しむ」と訓読みします。「何かを人に貸したり、与えたりするのを物惜しみする」という意味です。「突っ慳貪(つっけんどん)」という言い回しは、慳貪を強めたものですが、必要以上に惜しむ心は、自ずから「刺々(とげとげ)しい物言いや、乱暴な振る舞い」となって表れ出てしまうのでしょう。
また「貪」は「欲深く物を欲しがって、いつまでも貪り続ける」という意味です。怒りの心(瞋恚(しんに))・無知の心(愚痴(ぐち))とともに3つの煩悩(三毒)の1つに数えられています。
過度に他人のものを欲しがったり、自分のものを手放さなかったりする「慳貪」な人は、ともすれば周りから「強欲でケチ」と思われてしまうかもしれません。仏教ではこのようにならないよう「不慳貪(ふけんどん)」(我欲を離れて思いやりの心を持つこと)の教えを説いています。
「慳貪」をめぐっては、次のような笑い話が伝わっています。
昔、奈良に虫歯を抜く唐人(異国の人)がいました。そこにケチで、折に触れては商売の損得ばかりを考えていた金持ちが、虫歯を抜いてもらおうと、やって来ました。すると、歯を1本抜くには銭2文(にもん)と決まっているのに、男は半額の「1文で抜いてくれ」と要求します。わずかな金額なので、無料で抜いてやっても良いと医者は思ったのですが、男の「突っ慳貪(つっけんどん)」な感じに腹が立って、「決して1文では抜かないぞ」と譲りません。
しばらく言い争っていましたが、全く抜く気配がないので、「ならば、3文で歯を2本抜いてください」と頼み込み、虫歯でもない歯と一緒に2本抜いて、3文のお金を支払ったのでした。内心では儲けたと喜んでいても、健康な歯を失ったのは大損でしょう。これは本当に愚かで馬鹿げた行為です。
とは言うものの、世間の人々は利欲を貪る心が深く、つい利益を求めてしまうものです。これから受ける苦報(悪因による苦しみ)を考えず、ただ目の前の「幻の報酬」にのみ心を奪われて、来世への「尊い財」を失い、幸せに向かうための御利益を手にできないことが多いのです。
(『沙石集』など)
「小利(しょうり)大損(だいそん)」という言葉があります。ここに登場する男は、目先の私利私欲に突っ走り、結局は大きな損失を生んでしまったのでした。『沙石集』では、この「慳貪男(けんどんおとこ)」を悪い見本として、「素直」で「無欲」、「善い行い」を積んで「誠実」であることの大切さを説いています。
慳貪によって「この世で得た富」(世財(せざい))は、いずれは消え去る一時のものですが、「正しい行いによって得た富」(聖財(しょうざい))は、身体は滅びても、どこまでも寄り添ってくれるのでしょう。
慳貪放逸(けんどんほういつ)の者に
伴(ともな)う事なかれ。
(『伊曽保物語』)
(欲深く、好き勝手な者に、付き随ってはならない)
これは自身の心に向けられた警句でもあるでしょう。吹きつける風に秋の深まりを観じても、心の潤いまで枯らすことのないようにしたいものです。
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最後までお読みくださりありがとうございました。