桜が散ったからでしょうか。。。また黄色い花が目立ってきました。
漢方では鎮痛薬に用いられるようです。
レンギョウ(連翹)と聞くと、つい練行(仏道修行)を思い出してしまいうのは仕事柄でしょうか。
今回の文章は、六根のまとめとして、「鼻」(香り)をテーマに、六根を清めることの大切さについて書いてみたものです。
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「法の水茎」33(2015年3月記)
弥生を迎え、名残の寒さも一雨ごとに和らいできました。この時期の雨は、早く花が開いてほしいという願いから「催花雨」とも呼ばれます。春先の草花は、雨の思いに急かされるように、色とりどりの花を咲かせ、可憐な表情を私たちに見せてくれます。
春の気配は、日が暮れてからも感じられます。
春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそ見えね 香やは隠るる
(『古今集』凡河内躬恒)
(春の暗闇は、「闇」と言いながら理解できない。梅の姿こそ見えないけれど、香りは隠れていないのだ)
梅の花は、平安時代以降、姿とともに香りも尊ぶようになりました。桜と並んで春を代表する梅は、月の出ていない暗夜であっても、その気高い香気までは包み隠すことができないのでしょう。「春の夜」とは、儚く短いことを喩えた言葉でもありますが、あっと言う間に過ぎ去ってしまう季節だからこそ、野に咲く花や木に集う鳥たちも、力いっぱいの輝きを放っているように思われます。
これまで1年間、心の眼を持つことの大切さや、ホトトギスの鳴き声の話、仏様に供える香水や、醍醐味の話、お盆のお供え物や、尼僧の清らかな行いなど、人間の「六根」(眼・耳・鼻・舌・身・意)をテーマに書き進めてきました。
六根懺悔の庭には、妄想の露も結ばず。
(『平家物語』熊野参詣)
(迷いの罪を悔いる場には、間違った考えは生まれない)
という言葉のように、日々の行いを正しく見つめながら「六根」を清めていくことは、さまざまな悩みや苦しみを洗い流すことに通じるのでしょう。
平安時代のお話。ある所に1人の老女がいました。道心(仏道を修める心)があり、1ヶ月の前半の15日は仏事(仏様に関わること)を行い、後半の15日間は日常の仕事を営んでいました。
その仏事の勤め方というのは、いつもお香を買っては近くの全ての寺に持って行き、仏様に捧げるというものでした。春と秋には、野や山に出かけて季節の花を摘み、お米や果物なども用意して、お香に加えてお供えしました。三宝(仏法僧)にお供えすることを日常としながら、長年にわたって極楽往生を願っていました。
その後、女性は病気にかかり、何日も病床に臥します。家族をはじめ集まった人々は悲しみに暮れ、何とか治そうと努めました。
するとある時、女性は急に身を起こします。着ていた着物は脱げ落ち、右手には一葉の蓮華を手にしていました。鮮やかで美しく、芳しい香りのする蓮の花は、とてもこの世のものとは思えませんでした。
看病の者が尋ねると、女性は答えます。「これは、極楽浄土より私を迎えに来た仏様が持ってきてくださった花ですよ」と。するとそのまま息絶えたのでした。
(『今昔物語集』)
ここに登場する女性は、仏様に花や香を供えながら、いつも全てを清らかに保っていました。辛く暗い世の中にあっても、春の梅の花のように、「異香」(すぐれた良い香)を絶えず放っていたのでしょう。それを見ていた仏様は、最後の最期に光を与え、新しい衣服と蓮の花を手渡したのです。
思うにそれは、女性にとって最上のプレゼントだったのではないでしょうか。蓮を手にし、仏様の微笑みに見守られての旅立ちは、至福の喜びに包まれていたことが想像されます。
春の花、秋の菊、咲つて我に向へり。
暁の月、朝の風、情塵を洗(あら)ふ。
(空海『性霊集』)
(春の花や、秋の菊は、蕾が開くように優しく私に微笑みかけている。明け方の月や、早朝の風は、さまざまな悩み(煩悩)を洗ってくれている)
ここに見える「春の花」「秋の菊」「暁の月」「朝の風」は、全て移ろいやすく儚いものばかりです。忙しい毎日では、つい見過ごしてしまいがちですが、前の女性のように、日頃から自然の息吹に触れ、六根を清めることによって気づく世界なのでしょう。
八宗の祖師と言われる龍樹菩薩(150頃〜250頃)は、「六根」について次のように戒めています(私に意訳)。
六根を備えて頭が良くても、
善い行いをしなければ、
人の身に生まれてきた甲斐がない。
(『大智度論』)
春の花は風に散りやすいものです。花びらは舞っても、いつかは確かな「心眼の花」を手にしていたいと願います。
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最後までお読みくださりありがとうございました。