坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「鎌倉期の密教文学」(智山勧学会『会報』57、2021/03/31)に掲載されました。


桔梗が雨に濡れています。

f:id:mizu-kuki:20210701093954j:plain


つぼみも多いので、これからますます咲いてきますね。

さて、昨年秋に「鎌倉期の密教文学」と題する講演会をしました(令和2年度 第43回 智山談話会)。

こちらは過去の関連記事です。

www.mizu-kuki.work

 当日の様子です。会場は別院真福寺(港区愛宕)でした。

www.mizu-kuki.work

 

この度、講演会の内容をまとめたものが、智山勧学会『会報』57号に掲載されました。2時間の持ち時間でしたが、紙幅の都合上、だいぶ内容を省略しました。

以下の2頁です。お読みいただけましたら幸いです。

f:id:mizu-kuki:20210701094032j:plain




f:id:mizu-kuki:20210701095033j:plain




[以下、全文]

令和二年度 第四十三回 智山談話会

鎌倉期の密教文学

二〇二〇年十一月三十日(月)於 別院真福寺

講師 大正大学講師 髙橋秀城師

 

[要旨]

 

  はじめに

本談話会では、「密教文学」には欠かすことのできない西行(一一一八~一一九〇)、頼瑜(一二二六~一三〇四)、無住(一二二六~一三一二)という三人の真言僧の文学活動を取り上げ、合わせて、僧侶が文学作品を書く素養となった基礎教養書なども探りながら、「仏教文学」ひいては「密教文学」の特徴の一端を垣間見ることにいたしました。

 ここでは紙幅の関係から当日の内容のすべてを記載できませんので、三点に絞って述べさせていただきます。

  近代の智山派における「文学」の講義課程

 最近発行された真言宗智山派教学部「真言宗智山派の僧侶育成―現状と課題―」『智山ジャーナル』九三号(二〇二〇・一一)の「智山専門学校〈昭和十五年度各科授業学科目〉」には、昭和十五年(一九四〇)における智山専門学校本科・予科の授業科目内容が列挙されています。

そこには、予科一年から本科三年までの講義課程が示されており、講義科目としては「終身」「密教学」「仏教学」「哲学」「漢文」「国語」「語学」「体操」が挙げられています。仏教に関わる専門的な内容に加えて、「国語」や「漢文」の講義が行われていたことが分かります。

学年を追って具体的に見てみると、予科一年「漢文」では『論語』『史記』『文章規範』を読み、「国語」では『増鏡』『竹取物語』『徒然草』「国文法作文」の授業が行われています。予科二年「漢文」では『孟子』「唐詩選」『韓非子』を読み、「国語」では『平家物語』『大鏡』『古今集』と見えます。本科一年になると読むべき作品の種類が増え、「漢文」では『大学』『中庸』『荀子』『左伝』(『春秋左氏伝』)など、「国語」では『源氏物語』『枕草子』「近世文学」(江戸期文学)を学んでいます。本科二年「漢文」では『詩経』『老子』『近思録』など、「国語」では『万葉集』や、引き続き『源氏物語』が選ばれ、最終学年の三年次には「漢文」では『書経』『荘子』『伝習録』など、「国語」では『古事記』「国文学史」が学ばれていました。

このように、昭和初期の智山専門学校では、専門的な「仏教学」や「密教学」などとともに、「文学」の知識も必須教養として、授業のカリキュラムに組み込まれていたことが知られるのです。

遡って明治期における真言宗の教育課程について見てみましょう。阿部貴子先生による「明治期における真言宗の教育カリキュラム―普通学の導入をめぐって―」『現代密教』二四号(二〇一三・三)に挙げられた表「新義派中学林・大学林予備校学科表(明治二十六年十二月)」には、中学林一年から大学林予備校三年までの講義課程が記されています。講義科目としては仏教的なものに加えて、やはり「国語」「漢文」の講義が行われていたことが分かります。

 「国語及漢文」の項目を見てみると、中学林一年では入門書としての『国文中学読本』『小学句読』『蒙求』と見え、中学林二年では『国文中学読本』『文章規範』『孟子』が選ばれています。大学に入ると大学林予備校一年で『日本文典』『論語』、大学林予備校一年で『徒然草』『土佐日記』『史記』「列伝」『八家文』(『唐宋八大家』)を読み、最終学年の大学林予備校三年では『枕草子』『荘子』を学んでいます。

以上のように、明治期から昭和初期の智山派の講義課程には「文学」の講義が組み込まれていました。こうした「国語」「漢文」の典籍は、現代の私たちが真言密教を学ぶにあたっても参考となるものであり、いにしえから続く「仏教」と「文学」の密接なつながりを示すものと言えるでしょう。

  智積院経蔵に保管されている文学作品

江戸期以前の智山派の僧侶も、文学を含む幅広い知識を学んでいました。それは、智積院に伝存する経蔵の蔵書からも知られます。

智積院には「運敞蔵」「智山書庫」「新文庫」という三つの経蔵があります。そこに収蔵されている「国語及漢文」の典籍に注目すれば、「智山書庫」には『論語』『大学』『孝経』『蒙求』『文選』などの中国典籍の他、『古事記』『日本書紀』『日本霊異記』『枕草子』『聖徳太子伝』『続門葉和歌集』『西行撰集抄』『江談抄』『十訓抄』『沙石集』『妻鏡』『徒然草』『兼好法師家集』『太平記』などの古典文学作品を見ることができます。

運敞僧正(一六一四~一六九三)の蔵書が収められた「運敞蔵」にも、『源氏物語』『大鏡』『江談抄』『百人一首』『関ヶ原軍記』『和漢朗詠集註』など、物語・歴史書から説話・和歌・軍記に至るまでの幅広い「文学書」が見られます。

運敞には、僧伝『結網集』の他、『性霊集便蒙』や漢詩集『瑞林集』など二百余巻に及ぶ著述が知られます。わけても、随筆的要素を持つ『寂照堂谷響集』は引用典籍も多く、『徒然草』『太平記』などの文学作品も引かれています。運敞は、学問研鑽や布教を推し進める中で、積極的に「文学書」も学んでいました。それらは時に真言の修学に関わるものとして取り込まれ、時に教学の裏付けともなりながら、唱導(説法)の場で語られるものとしての役割も担っていたと思われます。仏教書(密教書)と文学書との往還が行われていたところにも、智山教学の一端がうかがえるように思います。

  頼瑜僧正の和歌

 頼瑜の和歌は、現在、『真俗雑記』に七首、『続門葉和歌集』(憲淳の監修)に三首、『安撰和歌集』(興雅の撰)に一首の計十一首が知られています。ここでは特に、『真俗雑記問答鈔』に見られる頼瑜の和歌一首に絞って取り上げます。

  ウツヽトモ夢トモイワシ中くニ

   シルモシラヌモ一ツコヽロヲ

この「ウツヽトモ」の歌は、「現」と「夢」、「知る」と「知らぬ」という二項対照から想起された表現です。「現」と「知る」、「夢」と「知らぬ」が対応しており、「夢・現」「なかなか」「しるもしらぬも」という伝統的歌語によって和歌世界が形成されているところに、頼瑜の和歌知識がうかがえます。悟りの境地も迷いの境地も、「一ツコヽロ」と詠っているのです。

ここでいう「一ツコヽロ(一つ心)」とは、単に「同じ心」という意味だけではなく、『華厳経』や『大乗起信論』、その注釈書である『釋摩訶衍論』などに説く全ての現象の根元としての「一心」に通じるものがあるでしょう。頼瑜は、悟りの境地も迷いの境地も、「一心」であると詠っており、和歌によって「一心」の教えを表していたのでしょう。これは煩悩即菩提・和歌即陀羅尼の思想にも通じるものです。

 頼瑜の和歌には、一首の中に迷いと悟りの境地が共に詠み込まれるという「不二の一心」が表されています。真摯な学問研鑽によって体得した悟りの境地を、和歌という形で表現したのです。これは、幅広い学識を有していた学匠頼瑜だからこそ詠むことのできた和歌であり、まさに「密教文学」と言えるでしょう。

  おわりに

談話会当日は、頼瑜の和歌の他にも、頼瑜周辺の言談や歌書目録、歌会次第などについてもお話しさせていただきました。頼瑜は身近に歌学書を閲覧できる環境にあり、歌会次第などの和歌知識も有していました。歌人と触れ合う環境にもあり、仁和寺僧との交流などからも和歌知識を得ていたものと推測されます。

今後は、さらに中世宗教世界を立体的に捉えるため、頼瑜をはじめとする中世真言僧侶の人的交流を跡付け、師や弟子といった周辺の人物の言説も考証していく必要があるでしょう。こうした研究は、文学のみならず仏教学や密教学の研究領域を押し広げることにも繋がります。地道な作業の継続によって、中世の真言文化圏にみる密教思想と文学活動との関係が徐々に明らかとなり、「密教文学」の特徴がいっそう解明されるものと考えています。



     ※      ※

最後までお読みくださりありがとうございました。