坊さんブログ、水茎の跡。

小さな寺院の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。普濟寺(普済寺/栃木県さくら市)住職。

中世の城跡~金枝城について~

稲刈月(いねかりづき)を迎えました。
その名の通り、今月に入ってから稲刈りが忙しくなっています。

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今夜からは大型の台風が近づいてくるようです。
無事に実りの秋を迎えられるよう、静かに通り過ぎてほしいと思います。

かつてお寺の近くにあったお城(金枝城)の復元図を、一粒庵さんが描いてくださいました。

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金枝城跡

現在の電子国土地理院地図に重ねてみると、位置関係がよく分かりますね。

地図の右下に「三光山普濟寺」としてお寺がありますが、江戸時代末期の火災に遭うまでは、裏山の高台にありました。ちょうど城の東側に当たる場所です。昭和50年頃、そこから中興の祖の墓碑が発見されて、現在の寺墓地に移転しました。

普済寺
ふさいじ

[現]喜連川町金枝
字金枝(かなえだ)の主要地方道烏山―矢板線沿い東にある。三光山清光院と号し、真言宗智山派、本尊大日如来。もと沢(さわ)村(現矢板市)観音寺末。永禄二年(一五五九)の創建で、開山は宥哲と伝える。大檀那は土豪金枝氏で、那須氏に属して各地に転戦する金枝郷士の祈願所・菩提所として字内越(うちこし)(現寺地裏山の高台)に堂宇を建立したのに始まるという。正徳四年(一七一四)中興の祖宥誉が現在地に移して伽藍を営んだ。薬師堂に安置されている薬師如来像はその時期の開眼。台座に宥誉の名が残る。文化七年(一八一〇)火災により本堂全焼、天保七年(一八三六)尊海に至って再建された(「喜連川町誌」など)。

『日本歴史地名大系』「普済寺」の項
 

 金枝城については、近年、渡邉昌樹氏による「栃木県さくら市・金枝城」(『中世城郭研究』(中世城郭研究会)第31号、2017年7月所収)が発表されました。御論文をPDFとして紹介させていただきます。

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論文1枚目

 

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論文2枚目

 

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論文3枚目

渡邉昌樹氏には『栃木県の中世城郭』というホームページもあります。
金枝城についても詳細に書いてくださっていますので、ぜひ御覧いただければと思います。

tochichu2.web.fc2.com


当時の金枝の人々は、どのような生活をしていたのでしょう。今と違って、戦の最前線で緊迫していたのかもしれません。

金枝城跡については、地元の方でも存在は知っているものの、その歴史や価値などについては分からないことが多い状況です。生まれ育った土地の歴史が、これから少しずつでも明らかになれば、地元への愛着はますます深まっていくでしょうね。

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最後までお読みくださりありがとうございました。