赤のカルミアです。
お寺には白もあります。紅白のカルミアは見ごたえがあります。
カルミアという名前は、スウェーデンの植物学者、ペール・カルムにちなんで命名されたそうです。
今回の文章は、六道の「天道」をテーマとして、人間界よりも苦しみも少ない世界について書いたものです。
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「法の水茎」71(2018年5月記)
紫藤(しとう)の露の底に
残花(ざんか)の色
翠竹(すいちく)の煙の中に
暮鳥(ぼちょう)の声
(『和漢朗詠集』源相規)
(紫の藤が露のもとに散り残っている。翠の竹が靄(かお)る中に夕暮れの鶯の声が聞こえて、春の名残を留めている)
先日まで梅や桜が咲き誇っていた庭にも、いつの間にか山吹色や藤紫など、初夏の彩が増してきました。真っ青な空には白いと雲が浮かんで、水を引き込んだ田の面にくっきりと映り込んでいます。田植えを済ませて一息つけば、どこからともなく聞こえてくる蛙(かわず)の大合唱に季節の移ろいを感じます。
夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを
雲のいづこに 月宿るらむ
(『古今集』清原深養父)
(夏の夜は短くて、まだ宵の口と思っていたら、もう明けてしまった。沈む暇がなかった月は、雲のどの辺りに宿を借りるのだろう)
「短夜(みじかよ)」と言われるように、これから夏に向かって日一日と夜明けが早まっていきます。この歌では、夜を徹して時鳥(ほととぎす)の初音(はつね)を待っていたのでしょうか。気がつけば夜が明けて、空には共に過ごした月が、雲の宿りを探し求めているようです。
ところで、見上げる空の彼方には、どのような世界があるのでしょう。想像もつきませんが、きっと果てしなく広がっているに違いありません。前号では私たちが住むこの世(人界(にんがい))を取り上げましたが、今回は、その上の「天界(てんかい)」を仰ぎ見たいと思います。
仏教で「天」は、天界・天上界・天道などと呼ばれ、これまで見てきた6つの世界(六道)の中では、六欲天として最上位に位置しています。人間界よりも遥かに清らかで、苦しみも少ない天界には、例えば兜率天(とそつてん)に弥勒菩薩(みろくぼさつ)が、忉利天(とうりてん)に帝釈天(たいしゃくてん)が住しています。高尾山薬王院の山門に祀られる四天王も、帝釈天に仕えながら仏法を守護しています。
天人の寿命は長く、人間の400年を1日として4000年(地上の5億7600万年)とも言われ、万年、千万年)、さらには一劫(いちごう)にも及ぶそうです。ちなみに「劫(ごう)」とは時間の単位で、一劫の長さは、とてつもなく大きな石に100年に1度天女(てんにょ)が舞い降り、薄い羽衣で触れて、その石が磨(す)り減って無くなるほどの時間に喩えられます。人知(じんち)をもっては計り知れない時の流れです。
このように、天界は全てにおいて人間界を超えた理想の世界です。天人は私たちに多くの幸せをもたらしてくれる神のような存在ですが、そのような天人をもってしても、いつかは人間と同じように命の終わりを迎えます。それは「天人の五衰(ごすい)」と呼ばれるもので、臨終が近づくと5つの衰えが現れると説かれています。それは、1、衣服が垢で汚れ、2、頭にかぶっている華の冠が萎れ、3、身体が臭くなり、4、腋の下から汗が流れ、5、自らの席(場所)を楽しまなくなる、という現象です。「五衰の睡(ねむり)」という言い回しがあるように、五衰の相が現れると、これまで天界で過ごしてきた極めて長い年月も、まるで一時の眠りのように感じられるそうです。長いようで短い……天人でさえそうなのですから、私たち人間は言うに及ばずでしょうか。
天界をめぐっては、お釈迦様の弟子となった難陀(なんだ)の話が伝わっています。
お釈迦様のお導きで出家をした難陀は、残してきた妻を忘れることができず、いつか寺から逃げ帰ろうと考えていました。
その心を見透かしたお釈迦様は、方便(ほうべん)(本当の教えに誘い入れるための仮の教え)を用います。「天上界が見たいか」と仰ると、衣の裾に取り付かせ、一緒に忉利天(とうりてん)に上られました。天界は全てが素晴らしい光景でした。
ふと見ると、天人は皆夫婦でいるはずなのに、ある天女(女性の天人)には男天がいません。不思議に思い理由を尋ねると、その天女は「難陀という方が戒律を守った功徳によって、この天に生まれ、私の夫となるはずなのです」と答えたのでした。それからというもの、難陀はこの天女を想い、妻のことは忘れて一途に戒律を守る生活を送りました。
しばらく経ってお釈迦様は「地獄を見に行こう」と仰ると、難陀を地獄へ連れて行きました。すると、とある地獄には釜もあり獄卒もいるのに罪人がいません。その訳を聞くと獄卒は「難陀という僧が忉利天で1000年の楽しみを得てからこの地獄に来るのだよ」と答えます。これを聞いて身の毛がよだち、今度は天女のことをも忘れて、涅槃(ねはん)(本当の幸せ)のために戒律を守り、ついに悟りの境地(安心(あんじん))を得たのでした。
(『沙石集』)
難陀の修行は、欲望を満たすためのものでした。行の功徳によって天界に生まれはしますが、結局は地獄に堕ちる定めとなっていたのです。
雲の上の 楽しみとても 甲斐ぞなき
さてしもやがて 住みし果てねば
(西行『山家集』)
(天界がどれほど楽しくても、そこには真の価値はない。天人も五衰して、永遠に住み続けることはできないのだから)
天界に咲く草花も、春から夏へと移り変わっているでしょうか。清々しい初夏の新緑に包まれながら、まだ見ぬ雲の上に思いを馳(は)せます。
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最後までお読みくださりありがとうございました。