万両のとなりには千両です。
色の変化が楽しめますね。
万両はサクラソウ科(またはヤブコウジ科)ヤブコウジ属、千両はセンリョウ科の常緑小低木です。
さて、今回の『高尾山報』の文章は、引き続き「時間」をテーマに、「劫」(ごう)という、人間には考えが及ばないほどの長い時間について書いたものです。
※ ※
「法の水茎」90(2019年12月記)
万物は秋の霜
よく色を壊(やぶ)る
四時は冬の日
最も凋年(ちょうねん)なり
(白居易『白氏文集』)
(全てのものは秋の霜によって色を変えてしまう。四季は冬の日が歳月を少なくしてしまう)
今年も残り僅かとなりました。錦をまとっていた秋の山々も様変わりして、今は冬の朝日を浴びた霜がキラキラと大地に輝いています。陰暦の10月から12月は「霜枯れ三月(みつき)」とも呼ばれますが、荒涼とした冬枯れの景色の中にあっても、せめて身と心は温かくして過ごしたいものです。
去る11月10日、天皇皇后両陛下の祝賀御列の儀(パレード)が行われました。雲ひとつない秋晴れのもと、皇居・宮殿から赤坂御所までの約4・6キロの沿道は、およそ12万人の群集で埋め尽くされ、祝福の歓喜の渦に包まれました。秋の陽光に照らされたイチョウ並木をお通りになった両陛下のお姿は眩いばかりでした。
昔、弘法大師空海(774~835)は、時の淳和天皇(786~840)に対して、
今上(きんじょう)陛下、
体(てい)は金剛を練(れん)し、
寿(じゅ)は石劫(しゃくごう)よりも
堅(かた)からむ。
(『性霊集』)
(天皇陛下の玉体(ぎょくたい)は金剛のように堅固であり、御寿命は盤石劫(ばんじゃくこう)よりも長いことだろう)
との願文を捧げました。時代は違えど、平和な世の中が未来永劫、末永く続いてほしいと心から願います。
さて、この願文の中にある「石劫(しゃくごう)」とはどのようなものでしょうか。実はこの「劫(こう(ごう))」という言葉は、仏教の時間を表す単位で「極めて長い時間」を意味します。その長さを喩えるなら、天人が40里四方(157キロ四方)の大石を薄衣で100年に一度払って、石が磨り減って無くなっても終わらない時間とも、また、40里四方の城に芥子(けし)を満たして、100年に一度、一粒ずつ取り去って、芥子が無くなっても終わらないほどの長い時間とも言われます(『大智度論』など)。『法華経』「普門品(ふもんぼん)」というお経の中に「歴劫不思議(りゃっこうふしぎ)」(永久に分からない)という文句があるように、人間には到底考えが及ばない、とてつもなく長い時間です。
ちなみに、落語「寿限無(じゅげむ)」には「五劫(ごこう)の擦り切れ」とあります。これは、一劫の5倍のことで、阿弥陀如来がまだ法蔵菩薩のときに、自らの誓いについて思惟(しゆい)(思いを凝らすこと)した時間とされます(五劫思惟(ごこうしゆい))。また、時間がかかって面倒くさいことを「億劫(おっくう)」と言いますが、これはもともと仏教語の「億劫(おくこう)」に由来しています。一劫の億倍という、人知はもちろんのこと時間をも超越した果てしない長さです。
「劫」をめぐっては、次のような話があります。
昔、吉野山の日蔵(にちぞう)上人が吉野の奥で修行なさっていたときのこと。身の丈7尺(約2・1メートル)ほどの鬼と出会いました。その体は紺青色で、髪は火のように赤く、首は細くて、胸の骨は角張り、腹は膨れ、脛の細くなった姿をしていました。日蔵に会うと、手を組み合わせてひたすら泣き続けました。
日蔵が「おまえはどういう鬼か」と聞くと、鬼は涙にむせびながら「自分は、4、500年前は人間でしたが、人に恨みを抱き、このような鬼の身となりました。その敵はもちろん、子々孫々に至るまで一人残らず殺してきました。
しかし、私の中には今でも尽きせぬ怒りの炎が燃え盛っています。こんな心を起こさなければ、極楽や天界にも生まれたでしょう。恨みを抱え、このような鬼の身となって、計り知れない無量億劫(むりょうおくこう)(未来永劫(みらいえいごう))の苦を受け続けることは悲しいものです。
他人に恨みを抱くのは、我が身に返って苦を受けることでした。もっと前に気づいていたなら、恨み心を持たなかったでしょう」と語り涙を流し続けました。
(『宇治拾遺物語』)
「人を憎むは身を憎む」という諺(ことわざ)のように、他人に抱いた憎しみは、めぐりめぐって自身を鬼の姿に変えました。それは「因果応報(いんがおうほう)の理(ことわり)」に導かれた、未来永劫(みらいえいごう)の責め苦であったのでしょう。
一念(いちねん)五百生(ごひゃくしょう)
繫念(けいねん)無量劫(むりょうごう)
(『太平記』)
(一度でも心に妄想を抱けば、永劫(えいごう)の罪を受ける)
いつまでも迷いの世界にあることを「長夜(ちょうや)の闇(やみ)」(長夜の眠り)と言います。間もなく冬至が近づき、なかなか明けない冬の夜に寂しさを感じても、怒りの炎のような心の闇夜には迷うことなく、新しい年の光を心静かに待ち望みたいと思います。
※ ※
最後までお読みくださりありがとうございました。