坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「不邪見」のお話①~心を浄めて、笑って向かう~「法の水茎」55

スポンサーリンク

ボタンはやはり優雅です。

f:id:mizu-kuki:20190514165007j:plain

牡丹

白色のボタンは清楚な装いです。吸い込まれそうな気持ちになります。


今回の文章は、十善戒の「不邪見(ふじゃけん)」をテーマに、間違った考え方について書いたものです。
 
    ※      ※

「法の水茎」55(2017年1月記)




 昨年は、東京でも54年ぶりに11月の初雪を観測しました。高尾山の山頂でも20センチの積雪があり、紅葉が一足早く雪化粧しました。

  新しき 年の初めに 豊の稔(とし)
   しるすとならし 雪の降れるは
         (『万葉集』葛井諸会)
(新しい年の初めに、今年の豊作の吉兆なのでしょう。雪がこのように降り積もるのは)

 皆さんは、雪の時節をお好きでしょうか。豪雪地帯の方々は雪下ろしなど大変な思いでしょうが、新年の大雪は、古くから良い兆しの現れとして喜ばれても来ました。歌にある「豊(とよ)の稔(とし)」とは、「草木が豊かに実を結ぶこと」を表します。深空から舞い降りる雪の一片は、豊かな秋の実りを予感させるものでもあるのでしょう。「稔(みのる)」には「これまでの努力が報われる」という意味もあります。新年に真っ白な雪景色が見られたなら、今年1年の幸いを心静かに祈りたいものです。

 高尾山薬王院においては、元日から大山隆玄御貫首大導師のもと「新年特別開帳大護摩供」が執り行われます。僧侶と信者の皆様とが一心にお経を唱え、世界平和や五穀豊穣、家内安全や無病息災などの祈りを捧げます。新しい年の始まりを皆で祝い、新たな夢と目標を胸に、この1年の幸せを願います。

 昨年の4月号からこれまで、10種類の善い行いについて書き進めてきました。不殺生(あらゆる生命を尊重しよう)から始まる「十善戒」は、特に真言宗で重んじられています。真言宗智山派の「智山勤行式」を手にとって、お寺やお仏壇の前で、お唱えになっている方もいらっしゃるでしょう。「十善戒」は「弟子某甲 尽未来際」(仏様を信じる私は、いつまでも)という文言で始まっているように、10の教えを守り続けることによって、少しずつ心が清められていきます。日常生活で嫌なことがあっても、「十善戒の衣」を身に纏えば、迷うことのない安らぎの道に導かれるでしょう。

 さて今回は、10番目の「不邪見(ふじゃけん)」の教えについて書いてみたいと思います。「邪見」の「邪」は「心がねじ曲がっていること」、「見」は「ものの考え方」という意味です。こうした「間違った考え」を持つと、どのようになってしまうのでしょうか。

 誰かに意地悪をされたり、馬鹿にされたりすることを「邪慳(じゃけん)にされた」と言います。「邪見」と「邪慳」(邪険)は漢字は異なりますが、「思いやりがなくて無慈悲な行動」(邪慳)は、全て「間違った考え」(邪見)から引き起こされたものです。「邪見の角」「邪見の刃」という言い回しがあるように、邪見は物事を荒立て、刃のように危害を加えます。邪見の心は、他人を傷つけるのです。

 ただ、邪見の心はなかなか本人には見えません。相手に傷を負わせても、自分では正しいと思っている場合もあります。どこからが正しくて、どこからが邪(よこしま)な考えになるのかも曖昧な中で、何をお手本としたら良いのでしょうか。

 昔、天竺(インド)に、ある国王の妃がいらっしゃいました。慈悲の心が深くて、あらゆるものに哀れみの心を持ち、清らかな信心を保ち、仏・法・僧の三宝を敬っておられました。一方、国王は邪見な心の持ち主で、邪な考えをしていたために、いつも王妃を妬み憎んでいました。

 ある時、王は嫉妬心のあまりに、王妃に向けて弓を引きます。しかし、妃は少しも恨みに思わず、むしろますます慈悲の心を起こして、王の邪見と、来世で受ける苦しみに同情しました。すると、矢は向きを変えて、王の胸に刺さり、逆に死んでしまわれたのでした。

 世間の諺にも、

  握れる拳(こぶし)、
  笑(え)める面(おもて)に当たらず。
(殴ってやろうと拳を握り締めても、笑顔には拳は当たらない)

と言います。憎む心がなく、打ち解けて笑って向かう人には、握り拳も開いて、わだかまりの心もなくなると言われます。

 だから、仏の道に入ろうとする人は、慈悲を心の習慣にして身につけなければなりません。応身(おうじん)の仏性(もとから私たちに備わっている仏様の心)が現れるかどうかは、ひとえに慈悲の心にかかっているのです。
             (『沙石集』)

 ここに登場する王と妃は、対照的な心柄でした。邪見な王は、日頃から憎しみに満ちた表情をし、対して、慈しみの心(慈悲心)を身につけていた妃は、心の底からの笑顔で人と接しています。これは邪見の林に迷い込まない、お手本となる言動と言えるでしょう。揺るぎない慈悲心によって、周りをも幸せにする妃の行いは、仏様そのものであったと考えられます。

  一切の悪業は、
  邪見を因と為す。
       (『涅槃経』)
(全ての悪い行いは、邪悪な心がもとである)

 1月は「睦月」とも呼ばれます。一説では、新年を迎えて人々が仲睦まじくするから名付けられたとか(『奥義抄』)。しんしんと降る穢れなき雪のように心を浄め、心温かな1年の第一歩を踏み出してみましょう。

     ※      ※

最後までお読みくださりありがとうございました。