坊さんブログ、水茎の跡。

小さな寺院の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。普濟寺(普済寺/栃木県さくら市)住職。

「正見」のお話①~水面に映る景色、正反対の自分~「法の水茎」56

本堂前のボタン。

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ボタン

お堂を荘厳してくれています。
「ようこそお参りくださいました」と頭を垂れているかのようです。


今回の文章は、八正道の「正見(しょうけん)」をテーマに、正しく真実を見ることについて書いたものです。
 
    ※      ※

「法の水茎」56(2017年2月記)




 立春を迎え、いよいよ暦の上でも春が巡ってきました。冷たい風をよけて、縁側の日だまりに腰を下ろせば、暖かな陽差しに身も心ものんびりと安らぎます。

 耳を澄ませば、春告鳥とも呼ばれる鴬が、初々しい鳴き声を春のお山に響かせているかもしれません。その声に急かされるかのように、山の草木も少しずつ芽吹き始めます。

  春立つと 聞きつるからに 春日山
   消えあへぬ雪の 花と見ゆらむ
         (『後撰集』凡河内躬恒)
(立春と耳にしたから、春日山に消え残っている雪が、花のように見えるのだろうか)

 春がやって来たと思えば、枯れ木に降りかかる枝の雪も、寒々とした残雪も、白い草花に見えてくるのでしょうか。やがて遠くの山々に春霞が立ち込めてくれば、それは満開の桜のように見紛うかもしれません。心の持ちようで、周りの景色が違ったものに見えてくるのです。

 先月号では、「邪見(じゃけん)」という誤った見方や考え方について書いてみました。自分では正しいと思っていても、知らず知らずに邪な袋小路に迷い込んでいる場合があります。いつも慈しみの心(慈悲心(じひしん))を抱きながら、まっすぐな表通りを大手を振って歩み続けたいものです。

 仏教語に「正見(しょうけん)」という言葉があります。「正しく真実を見る」という意味で、基本的な行いの1つに挙げられています。これは一見、簡単で当たり前の教えのようにも感じられますが、奈良時代の『日本書紀』という書物に、

  都(かつ)て正(まさ)しく語り、
  正(まさ)しく見るところ無くして、
  巧(たくみ)に詐(いつわ)る者多し。
(正しく語ったり、正しく見たりすることを全くしないで、巧みに真実を歪める者が多い)

と記されていることからも、遥か昔から人間が克服しきれないものなのでしょう。「人の振り見て我が振り直せ」という諺があるように、良いところは見習い、悪いところは改めなければとは思うのですが、他人の行動に目が留まっても、なかなか自分を見つめ直せないのも現実です。

 昔、ある山寺に4人の僧侶がいました。この世の真理は言葉では表せないと観じ、口を閉じ無言でいることを思い立ちました。

 そこで道場を整え、世俗を離れて身を浄め、身の回りの世話をする者(承仕)以外は道場に出入りさせないようにして、4人並んで無言の修行を始めたのでした。

 しばらく経ったある日のこと。夜が更けて灯火が消えそうになったので、一番下に座っていた僧が、側にいる承仕に向かって「灯心を上げて明るくしなさい」と命じました。

 すると、2番目に座っていた僧が、「無言の道場で言葉を発してはならないぞ」と叱ります。さらに3番目の僧は、2人が会話する様子を見ながら「おかしなことを話すでない」と注意したのでした。

 もう1人の上座の老僧は、その光景に呆れ果てながら、「私だけは絶対に物を言わないぞ」と決めて、静かに頷きました。その姿は、賢そうに見えて、みっともなく感じられました。

 人は、言葉の過ちからなかなか抜け出せません。自分の過ちには気付かず、他人を責めるのは常の心です。それは自分の顔にある傷を、鏡によって知るようなものなのです。

 ですから優れた人は、先人の教えを鏡として、傷を照らしてみるべきです。古の人は、「一日中他人のあら探しをする暇を、己の過ちが無いように見つめる時間に充てれば、必ずや道は成し遂げられる」と言っています。
             (『沙石集』)

 ここに登場する4人の僧侶は、究極の真理を求めて修行に励みました。ただ、1人の行動をきっかけにして、誹謗中傷が始まってしまいました。上座の老僧は話していませんが、言葉を発した他の僧を見下す気持ちを起こしていました。「無言」という行動にとらわれすぎて、言葉の本質を見抜く前に、世俗に舞い戻ってしまったようです。もしかすると、無言の行に最も励んでいたのは、僧侶のために黙々と働いていた承仕の若者だったのではないでしょうか。

 中国の古い思想家、墨子(ぼくし)(前480頃~前390頃)は、

  君子は水を鏡とせずして、
  人を鏡とする。
と語りました。水面に映る春景色は、実際とは逆さまに少し揺らめいています。鏡は「ありのままの姿」をそのままには映し出しませんが、身のまわりにあるさまざまな鏡と向き合いながら、自分自身を照らしていく生活が大切なのでしょう。

  正見(しょうけん)の者は、
  傍(そば)にありと見へたり。
     (『栂尾明恵上人遺訓』)
(正しい者は、いつも身近にいる)

 「正見」はどのようにしたら備わるのでしょう。自分の姿を鏡に映せば、正反対の自分が私に問いかけてきます。

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最後までお読みくださりありがとうございました。