坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「無財の七施」のお話① ~ 眼施、相手を分け隔てなく思いやりの心で見つめる眼差し ~


新年の年始回りも一段落しました。

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お檀家の皆さま、ありがとうございました。本年のご健康とご多幸を心よりお祈りいたします。

『高尾山報』「法の水茎」は、今回から「無財の七施」をテーマとして書いてみようと思います。最初は「眼施」。慈しみの眼や、胸底の鏡を磨くことの大切さについて書いて
みました。お読みいただけましたら幸いです。

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「法の水茎」115(2022年1月号)




  正月立つ春の初めにかくしつつ

   相し笑みてば時じけめやも 

      (『万葉集』大伴家持)

(正月を迎える春の初めに、このようにして、お互いに笑顔を交わすのは時節外れなのかなあ、いや、いつでも喜ばしいよ)

 令和の御代も四年目を迎えました。新しい年の始まりを祝い、夢と希望を胸に抱きながら、この一年の健康と幸せを祈ります。

 正月は「睦月(むつき)」とも呼ばれます。一説では、新年を迎えて多くの人が行き来し、仲睦まじく語り合うところから名づけられたとか。ここ数年は途絶えがちになっていた家族や仲間との団欒が、以前のようににぎやかに復活することを願います。

 冒頭の「正月(むつき)立つ」の歌では、新春に集った人々がお互いに笑顔を交わしています。「笑う門には福来たる」の諺のように、和やかな人の近くには、自ずから幸福が舞い込んでくるものです。何かと憂いの多い時代ではありますが、少しでも心穏やかな微笑みの時を大切にできればと思います。温かな眼差しや笑顔は、きっと周りにも良い影響を及ぼすでしょう。

 仏教に「眼施(げんせ)」という教えがあります。これは、「無財(むざい)の七施(しちせ)」という七つ布施行の第一番目に挙げられているものです。「布施」と聞くと、お寺や神社などへの金銭や物品の寄付を想像されるかもしれませんが、「無財の七施」は、富や財産を使わなくても、誰もが人々に喜びを与えることのできる実践法です。他者への布施行は、廻りめぐって自分自身にも大きな果報(良い報い)をもたらします。

 「眼施(げんせ)」については、「無財の七施」を説く『雑宝蔵経』というお経に、「常に好眼(こうげん)をもって父母・師長・沙門・婆羅門(ばらもん)を見、悪眼(あくげん)をもって見ず。これを名付けて眼施(げんせ)となす」と見えます。「好眼(こうげん)」の「好」には、「美しい」の他にも「親しい」「睦まじい」という意味があることから、「好眼」は「相手を分け隔てなく思いやりの心で見つめる眼差し」と言えるでしょう。

 一方、「好眼」の対になる「悪眼(あくげん)」は「険しい、憎しみの眼」を表します。

  慈眼(じげん)等しく見れば、

  怨憎会(をんぞうゑ)の苦もなし。

       (『栄花物語』)

(慈愛に満ちた優しい眼で平等に見れば、怨み憎む人や事物に出会う苦しみもない)

と説かれるように、「苦」を生み出す「悪眼」を離れ、慈悲の「好眼」を身につけることが、幸せへの第一歩となります。

 ところで、インド北部のヒマラヤ山脈には「俱那羅鳥(くならちょう)」(鳩那羅(クナーラ)鳥)という鳥がいるそうです。美しい眼を持ち、「好眼」と訳される野鳥です。この俱那羅鳥をめぐっては、古代インドの阿育王(あいくおう)(アショーカ王)の子息である王子が、俱那羅鳥のように澄み渡った瞳をしていたために「俱那羅太子(くならたいし)」と名づけられたと伝わっています(『三国伝記』)。

 この俱那羅太子の父、阿育王をめぐって、次のような話が残されています。

 阿育王は深く仏法に帰依していました。いつも多くの僧侶や修行者を宮中に招いては供養をしていました。

 阿育王には弟がいました。弟は仏法を信じず、僧が供養を受けるのを憎んでいました。

 そこで王は弟を懲らしめようと思い、弟をたぶらかして宮中に閉じ込め、逃げ出さないように見張りを置くと、次のように言いました。「お前を七日間だけ国王の位に就かせよう。思う存分、欲を満たすが良い。ただし、七日後には殺すとしよう」と。

 弟は七日目が近づくにつれて胸が張り裂けそうになり、欲望を感じなくなっていました。むしろ、昼も夜も無常を心に念じ、寝食も忘れるほどに一心に仏道修行に励むようになったのです。阿育王はその様子を見ると、弟を許したのでした。
          (『沙石集』)

 阿育王は弟に、この世のものは全て移り変わるという「無常」の道理を気づかせました。手荒い仕打ちをしたのも、弟を改心させるための荒療治だったのでしょう。阿育王は弟を憎んでいたわけではなく、日頃から慈しみの眼(好眼)で見つめていたからこそ、弟を仏様の道へと導いたのではないでしょうか。お陰で弟の「悪眼」も「好眼」へと一変しています。

 阿育王の慈悲の眼は、弟のみならず、清らかな眼を持つ息子や、周りの人々にも注がれていたでしょう。「眼施」の教えには、優しい温かな眼差しで人に接するという意味に加えて、無常のような仏様の教えを人々に伝えていくという教えも含まれているように思われます。

  慈眼視衆生(じげんじしゅじょう)

  福聚海無量(ふくじゅかいむりょう)

     (『法華経』「普門品偈」)

(温かな眼差しの功徳は、海のように広大である)

 「目は心の鏡」。真の瞳のきらめきは、あらゆるものへの慈しみの心(清浄心(しょうじょうしん))から映し出されます。今年も胸底の鏡をしっかり磨いて、光り輝く「好眼(こうげん)」の眼差しを、あらゆる世界に投げかけていきましょう。


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最後までお読みくださりありがとうございました。