大輪の花が咲き始めました。

華やかで優雅なたたずまいです。いよいよ初夏が近づいてきました。
今月の『高尾山報』「法の水茎」は、西行法師と松島と能登を行き来していた見仏上人との出会いを語るお話を取り上げてみました。お読みいただけましたら幸いです。
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「法の水茎」166(2026月4月)
春は出会いと別れの季節。慣れ親しんだ場所からの旅立ちと、新しい環境への期待と不安が入り交じる時期でもあります。何かと落ち着かない日々が続きますが、「会うは別れの始め」(出会いの先には必ず別れがある)とも言われます。草花の溢れる息吹にこの世の無常を感じ取りながら、少しでも心穏やかに過ごすことができればと思います。
俳人、前田普羅(1884~1954)は春の想いを、
春雪の解くるが如く卒業す
(前田普羅『普羅句集』)
という句に託しました。春の雪は「別れ雪」とも言われます。すっと消え行く淡雪の姿に静けさと別れを惜しむ気持ちを感じつつ、これまでの努力が報われたという喜びも込められているようです。
前田普羅は、関東大震災(1923)の翌年に富山県に転居しました。句集には「力強き越中の国の自然」(『普羅句集』)をはじめとする北陸地方の諷詠が数多く残されています。
神々の椿こぼるる能登の海
(前田普羅『能登蒼し』)
神聖な紅椿の花が、能登の青海原に散りかかっていたのでしょうか。北陸の厳しい自然への畏敬の念と、神々への深い感謝の心が刻まれているかのようです。
能登国(現在の石川県北部)もまた、豊かな自然と信仰が結びついた土地です。三方を海に囲まれ、北と西は日本海、東は富山湾に面し、能登半島をぐるりと周回する国道249号線(内浦街道・外浦街道)沿いには風光明媚な景観が続いています。神社仏閣も多く、古くから能登国三十三観音巡礼が盛んに行われてきました。
能登をめぐっては、これまで弘法大師空海(774~835)とのかかわりから須須神社(珠洲市)に伝わる「蝉折の笛」や、能登と佐渡とをつなぐ信仰の航路について書きました(「法の水茎」140~142)。能登半島には、お大師さまが杖で地面を突いて水を湧き出させたという「弘法水」の伝承も多く見られるなど、人々の篤い信仰が今も息づいています。
こうした仏教説話の中から、今回は先月号にも登場した西行法師(1118~1190)が、見仏上人(生没年未詳)という僧侶と出会った場面を取り上げたいと思います。
昔、西行が北陸へ行ったときのこと。能登国に、山と海が接して趣深い場所がありました。それは人里から離れた断崖絶壁の荒磯でした。
するとその岩屋に四十歳ほどの僧侶が座っていました。心を澄ませて、着の身着のままの様子でした。西行が話しかけると、この僧侶は微笑んで、
難波潟むら立つ松も見えぬ浦を
ここ住吉と誰か思はむ
(難波潟の群れ立つ松さえ見えない海岸を、ここが名勝として名高い住吉(住み良し)などと誰が思うでしょうか)
と仰るので、心に沁みて、
松が根の岸打つ波に洗はれて
ここ住吉と思ふばかりぞ
(松の根を清らかに洗うように岸辺に打ち寄せる波。こここそが有名な住吉(住み良し)の地と思われますよ)
と詠み返すと、この僧もたいそう感慨深げでいらっしゃるのでした。
西行があらためて尋ねると、「私は『月松島の聖』と呼ばれている者です。毎月十日間は、松島から必ずここに来ているのです」と答えます。西行は、この方が世に知られた見仏上人でいらっしゃると畏れ多く思われて、心に残る法文(経文)を伺います。その後は四日をかけて松島に向かい、見仏上人の寺で二ヶ月ほど滞在して教えを乞うたのでした。
(『撰集抄』)
見仏上人は、陸奥国松島(宮城県松島)の雄島に草庵を結んで、十二年もの間『法華経』を読誦(読経)したという伝説的な僧侶です。この話によれば、見仏上人は「奥州の高野」(『松島夜話』など)と称された松島から、毎月のように能登へと足を運んでは、吹き寄せる風や波の音に心を洗い清めていました。見仏上人には、
心より外には法の舟もなし
知らねば沈み知れば浮かびぬ
(『他阿上人集』詞書)
(悟りや救いの「法の舟」は、自分の外には存在しない。それに気づかなければ迷いに沈み、自分の心の中にある仏さま(真実心)に思い至れば救いの舟に浮かぶことができる)
という歌もあります。見仏上人の修行は、敢えて自身を見つめるための「孤独な行脚修行」(諸国を経巡る行)であったのかもしれません。
「能登はやさしや土までも」。能登地方の人の温かさや素朴な風土を称える言葉です。能登半島地震から丸二年が経ち、輪島の朝市にも少しずつ活気が戻りつつあるとのニュースを耳にしました。
見仏上人が行き来した能登も松島も、ともに災害の苦しみを経験した聖地。どこまでも清らかな優しさに包まれて、今年もまた復興へと向かう希望の春が巡ってきました。
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最後までお読みくださりありがとうございました。
