坊さんブログ、水茎の跡。

小さな寺院の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。普濟寺(普済寺/栃木県さくら市)住職。

弘法大師空海のお話㉘ ~ 川崎大師平間寺への参詣路、高野山から吹き寄せる誓願の風 ~ 「法の水茎」150

散り残っている紅葉。
冬の風の到来を待っているかのようです。


今月の『高尾山報』「法の水茎」も、弘法大師空海をめぐるお話しです。神奈川県にある「弘法山」と川崎大師平間寺の巡礼記について書いてみました。お読みいただけましたら幸いです。

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「法の水茎」150(2024月12月号)





  氷は水面を封じて

  聞くに浪なし

  雪は林頭に点じて

  見るに花あり

  (菅原道真『菅家文草』)

(氷は水面に蓋をして、波の音は聞こえてこない。雪は林に点々と降って、花が咲いたように見える)

 足早に過ぎ去った秋に変わって、今度は力強い冬将軍がやって来たようです。二十四節気の「大雪」(今年は12月7日)を迎えて、全国から続々と雪の便りが届きます。

 冒頭の漢詩では、今年も残り少なとなった冬ざれの景色と、間もなく訪れるであろう春を予感させる「雪の花」(雪を花に見立てた様子)が歌われています。この時期には、赤い実を付けた南天にも目が留まりますが、その上に雪が降り積もったら、まるで紅白の梅の花びらのように見えるでしょうか。

 雪は晴れた日にも風に舞います。遠い山から風に乗って運ばれてくる雪は「風花(かざはな)」と呼ばれ、真っ青な空から花のように降り注ぎます。積もることなく消えゆく風花は、この時期ならではの儚く美しい光景です。

 冬景色をめぐっては、弘法大師空海(774~835)も、次のような和歌を残されています。

  雪といひ氷と水の変はれども

   同じ流れの山川の水

     (『弘法大師全集』)

(雪と言い、氷・水と言い、名前も形もそれぞれ違うけれど、元を辿れば同じ山中から流れ来る水であるよ)

 この歌の前には、詞書として「迷悟不二の心を」という歌の意味が付されています。「迷悟」はそのまま「迷いと悟り」を意味し、「不二」は「二つと無いこと」を表します。先月号で取り上げたお大師さまの和歌「生死即涅槃の心」(生と死の苦しみも、そのまま悟りの縁となる)という教えとも近い境地が詠われていますが、この「雪といひ」の歌では「雪・氷・水のように一見別々に見えるものであっても、仏さまの眼から見ればそれは対立を超えて一つのもの」ということを解き明かしていらっしゃるのでしょう。

 この和歌と似た言葉に「雨霰雪や氷と変われども落つれば同じ谷川の水」という諺があります。「最初はさまざまに異なっていても終わりは同じ」という喩えから、「人間には貧富の差があっても、死ねばみな同じ」という使われ方に派生していきました。

  なお余談ですが、「「雪」「氷」「水」の三つの中で、一番難解なのはどれでしょう」という謎かけがあります。お分かりになるでしょうか。答えは「水」だそうです。理由は「氷は解けないし問題も解けないから」だとか。頭の体操にもなりますね。古代ギリシャの哲学者タレース(前624頃~前546頃)の「万物の根源は水である」という格言も思い起こされます。

 さて、お大師さまのお姿は、全国の地名や山名にも残されています。例えば、神奈川県秦野市には「弘法山」(標高約237メートル)という山があります。お大師さまが、この地で修行をしたとの伝承があり、周囲には観音山・地蔵入などの仏教的な地名も見られる神聖なお山です(『日本歴史地名大系』参照)。

 地名では、同じ神奈川県にある川崎市「大師町」が有名でしょう。この地には、真言宗智山派大本山の一つである川崎大師平間寺があります。付近には「大師本町」「大師河原」という町名も残されており、一説では、平間寺の御本尊である弘法大師像を漁夫がこの浦で引揚げたことによって「大師河原」と呼ばれるようになったとか。お寺の建立の由来と深く結びついた地名です。

 川崎大師平間寺は霊験あらたかな寺院として、古くから数多の人々が訪れてきました。その中から江戸時代の参詣記を少し垣間見てみましょう。

 歌人であり僧侶でもあった白蓉軒桂豁(けいけい)(1783?~1831)という人物に「大師河原紀行」と題する紀行文があります。42歳の厄年に差しかかった桂豁は、文政6年(1822)3月15日に、厄除けで名高い川崎大師へと向かいました。旅の行程は次のようなものです(詳しくは拙稿「白蓉軒桂豁の川崎大師参詣記」参照)。

 巳の上刻(午前9時台)に江戸を出立した桂豁は、季節柄、桜の花を見やりながら、さっそく2首の和歌を詠み、赤坂では新緑を愛でながら進み、溜池では清らかな雨に濡れた浮き草に春風が吹き渡る風情を眺めました。さらに、西久保八幡神社(港区虎ノ門)では幣を奉納し、赤羽橋付近の浄土宗大本山増上寺(港区芝公園)では山桜を眺め、三田の春日神社(港区三田)においては、神前で余生の安楽を祈っています。

 高輪からは海岸線を進み、人々が長閑に釣りをする姿や、鮫洲の子供達が干潟で貝拾いをして楽しんでいる様子を書き留めました。鈴ケ森(品川区南大井)では老松、大森村(大田区大森)では梅の若葉や山吹の花に目が留まります。

 蒲田村(大田区蒲田)では、慎ましく咲く菫を見つめ、六郷(大田区六郷)では遥かに光り輝く玉川の水を見やっています。

 川崎宿に入ると、田んぼの中にある古寺の桜を眺め、平間寺に辿り着いたのは未の刻(午後の2時頃)でした。大師堂を伏し拝み、弘法大師の面影を仰ぎながら、我が身の厄払いを祈っています。

 そして元来た道に戻り、暮れ方の気色を眺めながら、家に帰り着いたのは酉の下刻(午後6時台)でした。

     (「大師河原紀行」)

 「大師河原紀行」には、厄除けのために川崎大師に赴く途次での風景が記され、途中立ち寄った神社仏閣では感慨を和歌に詠み込んでいます。それは春の景色を楽しむ旅でもあり、神仏に祈りを捧げながら、自らの厄年を無事に乗り切るための旅でもあったのです。

 桂豁は、大師堂の前で歌を詠みました。

  はるばると辿り越し身は仰ぐかな

   高野の山の法の誓ひを

    (「大師河原紀行」)

(はるばる辿り着いて仰ぎ見ることよ。高野山で全ての人々を救済しよう誓いを立てたお大師さまの姿を)

 桂豁は、川崎大師を開かれた尊賢上人に思いを馳せながら、高野山を開かれたお大師さまを伏し拝んでいます。全国に広がるお大師さまの遺風は、元を辿れば高野山から吹き寄せる誓願の風であるのでしょう。



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最後までお読みくださりありがとうございました。