坊さんブログ、水茎の跡。

小さな寺院の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。普濟寺(普済寺/栃木県さくら市)住職。

弘法大師空海のお話㉗ ~ 修行大師像、苦しみを救われたお姿 ~ 「法の水茎」149


雨の朝。
イチョウもずいぶんと色づいてきました。

 

今月の『高尾山報』「法の水茎」は、写真の右の方に見える弘法大師の「修行大師像」をめぐるお話です。普濟寺の石像建立の由来についても書いてみました。お読みいただけましたら幸いです。

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「法の水茎」149(2024年11月号)

 

  もみぢ葉の流れざりせばたつた河

   水の秋をば誰か知らまし

       (『古今集』坂上是則)

(もみじ葉が散って、このように水に流れなかったならば、竜田川の「水の秋」を誰が知るだろうか)

 紅葉の色づき具合はいかがでしょうか。夏を引きずった暑さが十月末まで続いたこともあり、秋色の訪れが少し遅れているようです。今年の冬の始め(立冬)は11月7日。短い秋の深まりを全身で感じながら、心穏やかな日々を過ごすことができればと思います。

 冒頭の「もみぢ葉の」の歌では、川に散り敷いた紅葉が詠われています。奈良県北西部を流れる「たつた河」(竜田川/立田川)は、古来から紅葉の名所として知られていますが、その川面にも色とりどりの葉っぱが浮かび流れていたのでしょう。清らかに澄み切った「秋の水」に柔らかな秋の陽光が降り注いでいたのでしょうか。まるで錦織のように輝いていた光景が目に浮かびます。木々の梢から葉が落ちても、秋の面白みが尽きることはありません。

 弘法大師空海(774~835)もまた、秋の風情を歌に込めました。

  花といひ紅葉と名のみ立田山

   同じ梢に通ふ木枯らし

  (『弘法大師全集』)

(春は桜、秋は紅葉が名高い立田山だけれど、思えばどちらの梢にも吹きすぎる木枯らしの風よ)

 「木枯らし」は、冬の到来を告げる冷たい北風です。この和歌でお大師さまは、春の桜花も秋の紅葉もいずれは風に散って、結局は「同じ梢」(同じ枝先)に還っていくということを詠っているようです。

 ちなみに、歌の前に置かれた詞書には「生死即涅槃の心を」と記されています。難しい言い回しですが、仏教語「生死即涅槃」とは「生と死の苦しみも、そのまま悟りの縁となる」という教えになります。それを踏まえて味わえば、毎年のように梢に咲いては風に舞い、梢に色づいては散っていく自然の循環の中に「悟り(真理)の世界」が表れていると解釈できるでしょうか。若き頃より山野での厳しい仏道修行を積まれたお大師さまだからこその「悟りの和歌」と言えるでしょう。
 さて、真言宗のお寺を訪ねると、石や青銅で造られたお大師さまの像を境内でよくお見かけします。これは「修行大師像」(「遍路大師像」とも)と呼ばれるものです。袈裟を身につけ網代笠をかぶり、右手に錫杖を立て、左手には念珠(「仏鉢」や「五鈷杵」の場合もあり)、足には脚絆(布)、草履を履いた出で立ちは、まさに全国を歩かれ多くの人々の苦しみを救われたお大師さまのお姿です。高尾山薬王院にも、参道男坂の石段の登り口にお立ちになって、いつもお参りの方々の安全を見守っていらっしゃいます。

 ちなみに、私が住まうお寺(普濟寺)にも、修行大師の石像が聳え立っています。この像をめぐっては、先代の亡き父がこんなことを話していました。

 明治時代の話。岡田海恵という若い僧侶がいました。ある雪の日に修行のために歩いていると、疲れや寒さのために行き倒れてしまいました。どこか休むところがないかと見回したときに、近くにあったのが普濟寺というお寺でした。

 岡田僧正は縁を感じられたのでしょうか。明治24四年(1891)7月に無住であった普濟寺に入り、25世住職となられました。24歳の時でした。

 僧正は、その後も仏道修行に励みました。やがて四国八十八箇所の遍路を思い立つと、一度ならず二度もの巡拝を成し遂げたのでした(昭和11年〔1936〕5月成満)。それは実に68歳の満願(願いが叶うこと)でした。

 地域の人々は、僧正の功績を広く世間に知らせようと石像の建立を思い立ちます。浄財を集めて、昭和11年(1936)8月25日に開眼供養を行ったのが普濟寺の「修行大師像」です。そのお姿には、お大師さまと僧正の面影が重ね合わされているのです。
       (前住職談)

 両度にわたるお遍路は、おそらく命がけの旅路でもあったでしょう。功績をたたえた「修行大師像」の建立によって、遠く遍路が出来ない人であってもお大師さまとつながることができるようになったのです。

  南無大師遍照金剛

 全国に立たれている「修行大師像」には、これまで多くの祈りが捧げられてきました。お大師さまはその願いを一つ一つお聞きになり、身代わりとなることを決意して、今も歩き続けていらっしゃるのでしょう。



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最後までお読みくださりありがとうございました。