坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

弘法大師空海のお話⑩ ~ 「入定留身」、深い瞑想に入ったままのお姿 ~ 「法の水茎」131


石仏様も着飾っていらっしゃるようです。




心なしか嬉しそうに見えますね。

さて今月の「法の水茎」も「弘法大師空海のお話」です。お大師さまにとっての「入定」について書いてみました。お読みいただけましたら幸いです。

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「法の水茎」131(2023年5月号)



  夏も近づく

  八十八夜

  野にも山にも

  若葉が茂る

  あれに見えるは

  茶摘じゃないか

  茜襷に菅の笠

     (唱歌「茶摘」)

 こちらは今から100年以上前、明治45年(1912)刊行の「尋常小学唱歌」に掲載された日本の唱歌です。懐かしく口ずさまれる方も多いのではないでしょうか。「せっせっせーのよいよいよい」というお決まりのかけ声とともに手遊びをしたのも楽しい思い出です。

 「八十八夜」は暦の雑節の一つで、立春から数えて88日目に当たります(今年は5月2日)。二十四節気の「立夏」(5月6日)を前にした、まさに「夏も近づく」時節でしょう。田畑の作物の種まきに適した時期でもあり、茶どころでは茶摘みの最盛期を迎えます。この歌は、京都府綴喜郡宇治田原村(現在の宇治田原町)に伝わる茶摘み歌から取られたとする説がありますが、茜色に染めた襷に、昔話「笠地蔵」に登場するような菅笠(菅の葉で編んだ笠)をかぶっての摘み取りが、かつてはそこかしこで行われていたのでしょう。

 ちなみに、この地方では、八十八夜に苗代に種を蒔き、その隅に「いり米」(炒った米と豆)などをお供えする風習があったそうです(井上頼寿『改訂 京都民俗志』)。「八十八」は漢字の「米」にも通じますが、八十八夜は、農作業にとって大きな節目の日となっていました。慌ただしく忙しい中にあっても、自然への感謝の心を忘れずにいた人々の暮らしぶりが垣間見えてくるようです。

 「走り梅雨」という言い回しがあるように、5月も下旬になれは、雨模様の日も増えてきます。草木も一雨ごとに新緑から深緑へと移り変わり、潤いが似合う花々が次々に咲き始めます。

 この山々の緑が一層深くなり、湿り気を含んだ空気の重たさを感じる折節。京都の真言宗智山派総本山智積院では、毎年6月15日に「青葉まつり」という行事が執り行われます。これは、真言宗の宗祖である弘法大師空海(774~835)がお生まれになった日(宝亀5年(774)6月15日)と、中興の祖である興教大師覚鑁(1095~1143)がお生まれになった日(嘉保2年(1095)6月17日)に合わせて開催されるもので、両師の恩徳を慕いつつ、皆でご生誕をお祝いします。とりわけ今年は、お大師さまがご誕生なされて1250年の記念の年に当たります。例年にも増して盛大な「青葉まつり」に、皆さまも足を運ばれてみてはいかがでしょうか。

 さて今月号も、お大師さまの伝記を読み進めましょう。前回は、高野山上に金剛峯寺を開き、承和2年(835)3月21日に入定なされたところまでを読みました。普通「入定」という言葉は「高僧の死」を意味しますが、お大師さまにとっての「入定」とはどのようなものだったのか。その後の様子について、『今昔物語集』には次のように語り継がれています。

 入定なされてからしばらくして、般若寺の観賢僧正という方が高野山に参詣し、お大師さまが入定なされた洞窟を開きました。すると、中は霧が立ち込め暗夜のように何も見えません。霧が薄くなってから目をこらすと、お大師さまの朽ちた衣が、風が吹き込んだために塵となり、それが霧のように漂っていたのでした。

 塵が静まるとお大師さまのお姿が現れました。御髪は1尺(約30センチ)ほど伸びていらっしゃったので、観賢僧正自らが剃刀で御髪をお剃りし、朽ちて散らばっていた水晶のお念珠の珠を拾い集めて御手におかけし、衣も清浄な物をお着せしました。そして僧正は洞窟を出る時、今はじめてお別れするかのように泣き悲しまれたのでした。

 その後は誰も洞窟を開く人はいませんでしたが、人がお参りする時は堂の戸が自然に少し開いて、山に鳴るような音がしたり、鉦(かね)を打ったりする音がしたそうです。ここは鳥の声さえまれな山中ですが、全く恐ろしくありません。それは、坂の下に丹生・高野の二柱(ふたはしら)の明神が鎮座なされているからでしょう。霊妙な地として今もお参りが絶えません。

       (『今昔物語集』)

 お大師さまの「入定」は「入定留身(にゅうじょうるしん)」(禅定(深い瞑想)に入ったままの姿をこの世に留めること)とも呼ばれます。肉体を留めたまま洞穴で修行を続けていらっしゃるお姿を前にして、観賢僧正(854~925)は感激の涙を流しました。いつまでもお側に付き従っていたいという思いでもあったでしょう。

  明暗他に非ざれば

  信修すれば忽ちに證す

  (空海『般若心経秘鍵』)

(悟りも迷いも、他ではなく自分の心の中にあるもの。信心を起こして修行をすれば、忽ちにして悟りに到達できる)

 その後、観賢僧正は朝廷に働きかけ、延喜21年(921)10月27日に醍醐天皇(885~930)より「弘法大師」の諡号(しごう)(徳をたたえて贈る称号)を賜りました。ここに、四国八十八箇所をはじめとする、今につながる大師信仰の礎が築かれたのです。



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最後までお読みくださりありがとうございました。