マンリョウ(万両)の実が鮮やかです。
新年を迎えて、花言葉のように寿(ことほ)いでいるかのようです。
今年も成人式の時期となりました。
迎えられた皆様に心よりお祝いを申し上げますとともに、今後のご活躍を心より祈念いたします!
今月の「法の水茎」も「弘法大師空海のお話」です。「弘法にも筆の誤り」ということわざの出典となるお話しについて書いてみました。お読みいただけましたら幸いです。
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「法の水茎」127(2023年1月号)
あしひきの山の木末のほよ取りて
かざしつらくは千年寿くとそ
(『万葉集』大伴家持)
(木々の梢の寄生木を取って、髪に挿したのは、永遠の命を祝う心持ちからです)
この和歌は、天平勝宝2年(750)の正月2日に詠われたものです。冬を迎えてすっかり葉を落とした枝先に、丸く青々として葉を茂らす「ほよ」(ヤドリギの古名)の姿が目にとまったのでしょう。一年中枯れることを知らない常緑樹(常磐木)は、古来より強い生命力を感じさせるものとして受け止められてきました。「鶴は千年、亀は万年」という言い回しもありますが、ヤドリギを手に取った大伴家持(716~785)は、生き生きとした活力にあやかってそれを髪飾りとし、千歳万代の長寿を祝っています。人々の幸せを願う気持ちは、千年以上経った今でも変わることがありません。
1月2日は、書き初の吉日でもあります。言うまでもなく、書き初めは新年に初めて毛筆で文字を書く正月の行事です。近年はなかなか筆を持つ機会も減ってきましたが、江戸時代の寺子屋などでは、若水で墨をすり、その年の恵方(縁起の良い方角)に向かってめでたい意味の詩歌(漢詩や和歌)などを書きました。
長生殿の裏には
春秋富めり
不老門の前には
日月遅し
(『和漢朗詠集』慶滋保胤)
(長生殿の中では、わが君は年齢が若く前途豊かである。不老門の前では、月日の経つのがゆっくりで老いを迎えることがない)
これは、書き初めでよく書かれた漢詩です。長寿を意味する長生殿(唐代天子の寝殿)や不老門(洛陽の漢帝の宮門)を引きながら、平和な世の中が続くことへの祝意が詠み込まれています。
子供たちは、こうした書き初めの文字を小正月(1月15日)までとっておき、年神様を見送る「どんど焼き」(火祭り)の火にくべました。そして、その燃えがらが空中に高く上がると「手が上がる」(字が上達する)といって喜んだとか。一文字一文字丁寧に筆を走らせながら、今年一年の成長を願って火を見つめた先人の姿が思い起こされます。
弘法大師空海(774~835)は、この長生殿があったとされる長安の都で、真言密教の秘法を授けられました。城内では、王羲之(307?~365?)筆とも言われる壁の屏風に向かって、五カ所に五行を同時に書き始めて修復するという神業も伝えられています。お大師さまは、
大権(だいごん)の垂迹(すいじゃく)なり。
入木(じふぼく)の達者(たっしゃ)なり。
(尊円法親王『入木抄』)
(仏・菩薩が仮に現れたお姿。書道の達人)
とも評されます。中国の皇帝より「五筆和尚(ごひつかしょう)」として認められたのは、若き日からの並々ならぬ鍛錬があったからなのでしょう。
前回に続いて、今回も『今昔物語集』の空海伝を読み進めていきます。
いよいよ故郷に帰る日になって、空海は高い岸に立って誓いを立てました。「私が伝え学んだ秘密の教えを流布し、弥勒菩薩(未来の仏)が世に出るまで、仏法を保つために適当な地があるだろう。その土地に落ちよ」と言って、手に持った三鈷杵(さんこしょ)(仏具)を日本の方に向けて投げると、はるかに飛んで雲の中に入っていきました。
大同2年(807、正しくは大同元年〔806〕)10月22日、空海は無事に帰国しました。時の帝は、持ち帰った教えを、国内に広めるようにとの宣旨(公文書)を下し、さらに「城の南面の門の額を書きなさい」と命じました。
空海はさっそく全ての額を書き上げましたが、「応天門」の額を打ち付けた後で見てみると、「応」の字のはじめの点が見えなくなっています。驚いて、筆を投げて点を付けると、人々は手を叩いて感激したのでした。
(『今昔物語集』など)
聖地を求めて中国から投げた三鈷杵は、日本のどこに落ちたのでしょう。「飛行(ひぎょう)の三鈷(さんこ)」とも呼ばれる伝承については、『今昔物語集』を含めて別の書物にも詳しく記されていますので、また来月号で見てみたいと思います。
もう一つの応天門の額の話は、「弘法にも筆の誤り」ということわざの出典となるものです。「猿も木から落ちる」のように、名人でも時には間違えるという意味ですが、果たしてお大師さまは失敗したのでしょうか。
実は「弘法にも筆の誤り」という言葉が使われ出したのは、時代が下って江戸時代の中頃(1750年頃)からと言われています。この平安時代後期の『今昔物語集』には「落失たり」(落ちて無くなっていた)とあるのみで、書き損じとは書かれていません。
先月号では、水面に浮かんだまま流れなかった「龍」の文字の右の点を付けたとき、文字が龍王となって空に昇った話を読みました。もしかすると、今回の「応」(應)の起筆の点も、お大師さまは敢えて打たなかったのではないでしょうか。現在の応天門の額は、明治時代に書かれたものですが、「應」の下の「心」の部分には鳥の絵が描かれています。最後の点を打って真の龍が立ち現れたように、「應」の最初の点を打つことによって、門に新たな命を吹き込んだのではないかと想像されるのです。
一葉西に飛びて
残月細し
三鈷東に去りて
片雲低れり
(『別本和漢兼作集』)
(一葉は西に舞い飛んで、有明月が微かに残り、三鈷は東に飛び去って、ちぎれ雲が低く漂っている)
お大師さまは、新たな思いを乗せて三鈷や筆を空高く投げ上げたのでしょう。
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最後までお読みくださりありがとうございました。