坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「無常」のお話⑧~前世・現世・来世、幸せを願って~「法の水茎」79

ピーヒョロロロロ…

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トンビ

羽ばたく3羽の鳴き声が聞こえてきます。
輪を描きながら舞い上がっていきました。私もトンビのように、少しでも上昇気流に乗ることができればと思います。


今回の文章は、「無常」をテーマとして、前世からの因縁について書いたものです。

    ※      ※

「法の水茎」79(2019年1月記)




 新しい1年が始まりました。元日の様子については、平安時代の『枕草子』(3段)に、

  正月一日は、さらに空の様子も麗らかな感じがして、辺りに霞が立つ中、世の中の人々は身なりを美しく飾って、皆でお祝いの言葉を言い合っているのは、いつもと違って好ましい。
        (清少納言『枕草子』)

と見えます。今も昔も、新年の装いは変わらないのでしょう。年末とは打って変わった艶やかな晴れ着姿にも、新しい年の幕開けを感じます。

 言い古された感もありますが、「平成最後」の新年を迎えました。新しい年の始まりでもあり、全てが一つの時代の締めくくりでもあり、始めと終わりが共に入り交じっているような心境になります。

  あらたまの 年立ちかへる 朝より
   待たるるものは 鶯の声
         (『拾遺集』素性法師)
(新しい年になった、その朝から待たれるものは、鶯の初めて鳴く声だよ)

 歌の中の「立ちかへる」には、年が改まるとともに、「もとに戻る」「繰り返す」という意味も込められています。「季節は巡り、時は流れる」と言われるように、私たちは春・夏・秋・冬の季節の循環に身を置きながら、少しずつ時を歩んでいるのです。

 ただ、この歌にもあるように、新春を迎えると、鶯の初音が待ち遠しくなり、さらには梅や桜の開花も気になり始めます。春は必ずやってくるのに、ついつい心を急かせてしまうのは、人ならではの感性でしょうか。

 新年と言えば、もう初詣はされましたか。

 初詣とは、言うまでもなく「新年にはじめて寺社にお参りすること」です。

 先月号でも触れましたが、かつての年越しは、歳神様や、夏のお盆と同じように、ご先祖様の霊をお迎えする日でもありました。初詣の起源は、もともとは家の主が一家の繁栄を願って、身を浄め、大晦日から元日にかけて社に籠る「年蘢り」という習慣と言われます。冒頭に引いた『枕草子』には、「正月に寺に籠っているときは、とても寒く、雪も降りそうに冷え込んでいるのが面白い」(116段)と見えますが、凍えるような中でのお籠もりは、さぞかし厳しいものがあったでしょう。

 江戸時代の中頃からは、大晦日の午前零時前にお参りをして新年を迎えるようにもなり、これを「二年参り」と呼ぶようになりました。やがて現在のように、祖先の氏神様とは関わりなく、行楽も兼ねて、有名な寺社仏閣にお参りするようになったのは、明治時代以降と言われています。

 お正月のお参りをめぐっては、次のような不思議な話が伝わっています。

 今は昔。長谷寺(現在の奈良県桜井市初瀬)の奧に滝蔵という神が鎮座していました。その社の前に、長さ三間の檜皮葺の家がありました。社は山沿いの高い所に建ち、前の家は谷に柱を長く継いで建ててありました。その谷は遥かに深く、見下ろすと目もくらむほどでした。

 さて、ある年の正月。多くの人が参詣して、7・80人ほどがその社の前の家で、お経を読んだり、礼拝したりしていました。

 真夜中に差しかかった頃のこと。多くの人が集まって床が重くなっていたので、谷側の柱が谷の方に傾き、柱が土台石から落ちてしまいました。それに引かれるように他の柱も土台石から外れ、建物全てが谷の方へ崩れてしまいました。

 そこにいた者たちは、はじめは「地震か」と思っていましたが、突然に谷の方に崩れたので、居合わせた者は残らず谷のほうに放り出されてしまいました。しかし、その中で女1人、男3人、子供2人だけは、谷底に落ちたにもかかわらず、かすり傷一つなく助かったのでした。

 これを思うに、この無傷だった者たちは、前世での宿業(善い行い)が強かったので、神仏のご加護があったのでしょう。これは本当に希有なことです、と語り伝えているということです。
           (『今昔物語集』)

 末尾に「希有」とあるように、この話は滅多にない出来事でしょう。恐ろしい状況の中で、6人だけは無傷で救われました。これは、前世からの因縁(持って生まれたもの)によって、観音様がお救いになったのだと語っています。

 この話を読んだとき、私は少し不公平に感じました。誰もが懸命に祈っていたにもかかわらず、全員が救われなかったのはなぜなのかと。

 ただ、前世・現世・来世という3つの世(三世)を強く意識していた昔の人々にとって、この話は現代の私たちとは違ったように受け止められていたのでしょう。この話によって、より一層前世から見守ってくれている神仏に感謝し、来世の幸せを願って、心を奮い立たせたようにも感じられるのです。

  物皆は 新しき良し ただしくも
   人は古りにし 宜しかるべし
           (『万葉集』不知)
(物は全て新しいほうが良い。ただし、人だけは年を経たのが好ましいでしょう)

 人は齢を重ねながら成長します。今年も一つ一つ、ささやかな善行を積み重ねながら、揺るぎない心の土台石を築いていきたいと思います。

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最後までお読みくださりありがとうございました。