坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「無常」のお話④~無常は仏教の基礎、『方丈記』『無常安心章』「白骨の御文章(御文)」~「法の水茎」75

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本堂からの眺めです。

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参道

雨の重みで、モミジの葉も垂れ下がっています。
いつもより緑色を感じるお庭です。



今回の文章は、「無常」をテーマとして、『方丈記』と『無常安心章』「白骨の御文章(御文)」との類似などについて書いたものです。

    ※      ※

「法の水茎」75(2018年9月記)





 秋のお彼岸(後の彼岸)が近づいてきました。今年は23日の秋分の日を「中日(ちゅうにち)」として、20日が彼岸入り、26日が彼岸明けとなっています。お彼岸には、お寺やご先祖様のお墓をお参りして、いつもに増して清らかな生活を心がけます。

 お彼岸の太陽は、真東から昇って、真西に沈みます。あの世(彼岸)とこの世(此岸)が一直線に結ばれることから、ご先祖様との距離も一気に縮まります。お団子やおはぎなどのお供え物を持ってお墓に赴き、お盆にお送りしたご先祖様と、ひと月ぶりにお話してみてはいかがでしょうか。

  水の面に 照る月浪を 数ふれば
   今宵ぞ秋の 最中(もなか)なりける
         (『拾遺和歌集』源順)
(水面の小波に映る月を見ながら、過ぎゆく月日を数えてみると、今夜はちょうど秋の最中の十五夜であったよ)

 今年の中秋の名月(八月十五夜)は、お彼岸中の9月24日に当たります。身も心も澄み切った中で愛でる満月は、どのように光り輝いているでしょう。辺りから聞こえてくる虫の音の合唱も、吹き抜ける秋風も、きっと胸に沁みてくることと思います。

 この歌の「月浪(つきなみ)」には、「月の移り変わり」や、月ごとの「月次(つきなみ)」(月並(つきな)み)という意味も掛けられています。気づかないほどに少しずつ変化する月の姿を眺めながら、決して立ち止まらない時の流れを感じているのでしょう。

 このように、私たちが生きる世界は、時計の針が動き続けるように、一瞬たりとも歩みを止めることがありません。これを仏教では「無常(むじょう)」と言います。満開の花もいつかは風に散り、ひとたび「無常の風」に誘われれば、人の命も消え行きます。この世は移ろいやすいからこそ、人には「儚さを感じる心」が備わっているのでしょう。

 鴨長明(1155?~1216)の『方丈記』は、「人と栖(すみか)(住居)の無常」を語る文学作品です。先月号では、その中から冒頭の序章の一節を取り上げましたが、それは次のように続きます。

  朝に死に夕に生るるならひ、
  ただ水の泡にぞ似たりける。
  知らず、
  生れ死ぬる人
  いづかたより来りて、いづかたへか去る。
  また知らず、
  仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、
  何によりてか目を喜こばしむる。
             (『方丈記』序章)
(朝方に(人が)死に、夕方に(人が)生まれるという世の定めは、ちょうど水面に消えたり生じたりする水の泡に似ている。私にはわからない、生まれたり死んだりする人は、どこからやって来て、どこに去って行くのか。また、これもわからない、(生きている間だけの)仮住まいなのに、誰のために心を悩まして(建て)、何のために目を楽しませるだけの行いをするのだろうか)

 長明は、人が生まれ死ぬのは「ならひ」(世の常、決まり)であって、それは水の泡の有様に似ていると記しました。ここで注意されるのは、命と泡は同じではなく、似ているとした点でしょう。人の命には、どこからかやって来て、どこかに去って行くという「来し方行く末」が想像され、長明は、人の命を三世(過去・現在・未来)という広い視野の中で捉えています。逆行することのない流れの中で、敢えてこの仮の世で心労の種を蒔く必要はないのではないかと語っているのでしょう。

 実はここに挙げた『方丈記』の一節は、真言宗智山派の経本にある『無常安心章』という文章にも引用されています。『無常安心章』は、全体が330字程の短いもので、

  つらつら世の無常を按ずるに、
  朝たに花を玩びし紅顔も
  夕べには見るかげもなき白骨となり、
という言葉で始まります。お通夜などの際に読まれる場合もありますので、お聞きになった方もいらっしゃるかもしれません。

 この『無常安心章』の一節と『方丈記』とを比べてみると、多少の違いはあるもののほぼ同文となっています。『方丈記』は、例えば神奈川県立金沢文庫に伝わる鎌倉時代の史料の中に、僧侶の覚え書きとして、中国の詩文集『文選(もんぜん)』とともに抜き書きされたものが見出されるなど、説法の場で無常を語る際に使っていた形跡がうかがえます。この『無常安心章』のような経本にも『方丈記』が引かれているということは、文学作品が仏教に影響を与えた実例として注目されます。

 なお、冒頭の「朝たに花を玩びし紅顔も」の箇所は、藤原公任(966~1041)が撰した詩歌集『和漢朗詠集』が出典です。その他にも、後鳥羽上皇(1180~1239)の『無常講式』や、浄土真宗の存覚上人(1290~1373)の『存覚法語』、それを基にして作られた蓮如上人(1415~1499)の「白骨の御文章(御文)」などとの類似が見られます。こうした無常を説く章句は、宗派の枠を越えて、広く一般に知れ渡っていたのでしょう。無常は、仏教の基礎となる教えなのです。

  飛花(ひか)を見ては、
  無常の風の逃れがたき事を知り、
  朗月(ろうげつ)に臨むでは、
  煩悩の掩(おお)ひやすき事を弁ふべし。
          (無住『沙石集』)
(飛花落葉を見ては無常の風の逃れがたいことを知り、明るく澄んだ月を見ては煩悩の雲の覆いやすいことを心得るべきである)

 「秋」の下に「心」を付ければ「愁(しゅう)」という漢字になるように、とりわけ秋は物悲しさを感じる折節です。お墓に眠るご先祖様も、月夜の静寂の中で、子孫のお参りを今か今かと待ちわびているかもしれません。

     ※      ※

最後までお読みくださりありがとうございました。




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