坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「正定」のお話①~動揺を取る、安らかな境地へ~「法の水茎」63

ミズバショウが咲いていた場所がカキツバタに変わりました。

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杜若(カキツバタ)

カキツバタの響きを聞くと、ついつい『伊勢物語』9段の「東下り」を思い出してしまいます。

「唐衣 着つつなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ」

今回の文章は、八正道の「正定(しょうじょう)」をテーマに、正しく迷いのない境地に入ることについて書いたものです。

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「法の水茎」63(2017年9月記)





  昨日こそ 早苗とりしか いつの間に
   稲葉そよぎて 秋風の吹く
           (『古今集』不知)
(つい昨日、早苗を採って田植えをしたのに、いつの間に稲の葉がそよそよとそよぐ、秋風の吹く時節になったのだろう)

 今年の夏は、梅雨明けしてから雨模様の日が続きました。8月の東京で、月初めから21日間連続で降雨を観測するのは40年ぶりだそうで、天候不順による夏作物の生育が心配されます。実りの秋の「五穀豊穣」を一心に祈ります。

 稲刈りの便りが届き始める頃には、「後の彼岸」とも呼ばれる「秋彼岸」の1週間が巡ってきます。昼と夜の長さが等しく、あの世(彼岸(ひがん))とこの世(此岸(しがん))が近づくこの折節に、お墓参りをして手を合わせ、ご先祖様を偲びます。

  おほかたの 秋の気色は そならぬに
   見し世に似たる 夜半の月かな
         (『粟田口別当入道集』)
(ほとんどの秋の様子は変わってしまったのに、これまでと同じく照り輝いている夜更けの月よ)

 久しぶりに亡き人に語りかければ、時の流れのはやさに溜め息が出るかもしれません。そんな時、夜空を見上げてみてはいかがでしょうか。今年の十五夜(仲秋の名月)は、例年より少し遅めの10月4日。あの日と変わらぬ清かな月を眺めれば、揺れる気持ちも次第に收まるでしょう。

 仏教では、「心の動揺を取り除き、安らかな迷いのない境地に入ること」を「正定(しょうじょう)」と言います。密教には「月輪観(がちりんかん)」という修行がありますが、自分の心の中に清らかな満月(仏様の姿)を観じるのも、心を落ち着かせる方法です。他にも「阿字観(あじかん)」や「道場観(どうじょうかん)」、「日想観(にっそうかん)」や「数息観(すそくかん)」など、「観」と付くさまざまな修行法が説かれているように、まずは心を静めることが幸せへの近道なのでしょう。それは1箇所で観想(瞑想)するだけではなく、例えば、修験道(しゅげんどう)で富士山に登る修行を「富士禅定(ふじぜんじょう)」と呼ぶように、全身を使って雑念を払い、心を1つに集中していくことも含まれます。

 ですが、この慌ただしい日常生活の中で、こうした修行を体験するのは難しいのも現実です。では、どのようにすれば、心を整えられるのでしょう。

 兼好法師(1283頃~1352以後)は、『徒然草』の中で次のように記しています。

 筆を持てば何かを書きたいと思い、楽器を手に取れば音を出したいと思います。盃を持てば酒を思い浮かべ、サイコロを手にすれば賭け事をしようと思います。心は必ず、物事に触れて動くのです。ですから、仮初めにも良くない遊びをしてはいけません。

 少しでもお経の一句を見れば、何となく前後の文句も見えるものです。そのお陰で突然に、長年の誤解を改めることもあります。もし経典を開かなかったら、この間違いには気づかなかったでしょう。これは、触れたからこそのご利益なのです。

 信心が起こらなくても、仏の前に座って数珠を取り、お経を開けば、怠け心のうちにも善い行いが身につき、気持ちが乱れていても、僧侶の腰掛けに座れば、いつの間にか禅定(静寂の心境)に到達するでしょう。

 事理(じり)(現象と真理)は、もともと別々のものではありません。外見の姿が正しければ、心の悟りも実現します。ですから形だけであっても信仰心が足りないと言ってはいけません。外見だけでも敬って尊ぶべきです。
                (157段)

 兼好は、形から入ることも1つの真理と述べました。思えば、先月号で取り上げた、お釈迦様の弟子の周利槃特(しゅりはんどく)も、はじめは掃除の真似事から取りかかりました。それはやがて、散らかっていた心の塵を取り払う善行にもつながっていったのです。身も心もみるみる浄められていく周利槃特の姿に、周りの人々も良い影響を受けていたと思われます。

 日々の生活に忙殺されたら、散漫になりがちな心を1つに集めてみてはいかがでしょうか。「大切な何か」に目を向け、実際に触れてみれば、これまでとは違った安らぎの光景に出会えるかもしれません。

  雨を過ぎて松色を看、
  山に随って水源に到る。
  渓花(けいか)と禅意と、
  相対して亦言を忘る。
    (『唐詩三百首』劉長卿)
(雨上がりの鮮やかな松を見て、山道を分け入り水源に到る。谷川の花と静かな心持ちと、向かい合えば満ち足りて言葉もいらない)

 「秋」は「飽き」(気持ちが冷める)に通じるように、山の草木も心細さを抱くのでしょうか。風に揺らめき、少しずつ艶やかな紅に染まりゆく木々の葉は、むしろ秋の訪れを喜んでいるかのようです。満ち足りた「飽き足る」自然の中に身を置くと、いつしか私の身体にも、心地良い秋の風が吹き抜けていました。

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最後までお読みくださりありがとうございました。