坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「正語」のお話①~真実の言の葉、清らかな本質~「法の水茎」58

野菜も育っています。

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さやえんどう

さやえんどうです。花が咲きました。
いくつか収穫して食卓にのせて楽しんでいます。



今回の文章は、八正道の「正語(しょうご)」をテーマに、正しい言葉遣いを心がけることについて書いたものです。


    ※      ※

「法の水茎」58(2017年4月記)



  見渡せば 春日の野辺に 霞たる
   咲き乱れるは 桜花かも
            (『家持集』)
(見渡してみると、春日の野辺に春霞が立っている。辺りに咲き乱れている花は、桜花だろうか)

 皆さんはこの春、どのような桜の風景を心に残されたでしょうか。穏やかな光に咲き誇る姿や、月光に照らされた夜桜、朝日に輝く霞桜や、赤く染め上げられた夕桜など、思い出すたびに、その時その時の桜色が心象風景として蘇ります。

 この歌にある「咲き乱れる」という言葉は、「辺り一面に花が咲く」という意味です。たくさんの草花が咲き揃う姿を前にして、盛んな春の息吹に包まれたのでしょう。

 ところで、似た歌が採られている『万葉集』を見ると、

  見渡せば 春日の野辺に 霞立ち
   咲き匂へるは 桜花かも
とあり、「乱れる」が「匂へる」(色鮮やか)に変わっています。もしかすると「乱れる」という言葉の響きに、目の前の景物だけではなく、「思い乱れる」という好ましくない心情の揺れ動きを感じ取ったのかもしれません。心が落ち着かないときには、どんなに自然を肌で感じても、そこには心の距離が生じてしまいます。
 
 「文字の乱れは、心の乱れ」という言い回しがあります。「心の乱れ」は目で見ることができませんが、態度や言葉(話し言葉・書き言葉)となって表面に現れます。鎌倉時代の歌論書に、

  詞はそれ
  心の使ひなるが故に、
  詞疎かなれば
  心も疎かに聞こゆ。
        (『野守鏡』)
(言葉は心の使者だから、言葉遣いがいい加減だと、心も緩んでいるように見える)

と記されていることからも、古くからの言い伝えなのでしょう。

 正しい言葉遣いを心がけることを、仏教では「正語(しょうご)」と言います。以前「高尾山報」で取り上げた10種類の善い行い(十善戒)の中に、言葉に関わる教えがありました。不妄語(ふもうご)(嘘を言わない)、不綺語(ふきご)(無駄話をしない)、不悪口(ふあっく)(人を罵らない)、不両舌(りょうぜつ)(二枚舌を使わない)の4つです。日頃からこの教えを守り、何気ない言い回しを意識しながら生活することが求められています。

 とは言え、先ほどの「言葉は心の使い」(心に思っていることは、自ずから言葉にあらわれる)という格言からすれば、内面も磨く必要があるでしょう。誰も見ていないと、ついつい乱れがちですが、仏様はしっかりとご覧になっているようです。

 昔、土佐の国(現在の高知県)に胤間寺(たねまでら)という山寺がありました。ある時、その寺の僧に地元の役人が話を持ちかけました。「私には『大般若経(だいはんにゃきょう)』を書写しようという大願がある。あなたは手助けをして、結縁(けちえん)(縁を結ぶこと)するが良い。費用は私が工面しよう。あなたは仲間に語って、さっそく書写に取りかかりなさい」と。

 その後、役人は約束したにもかかわらず、費用を用意する素振りを見せませんでした。そのまま月日が過ぎ去りましたが、僧は善縁(ぜんえん)(良いご縁)を嬉しく感じて、自分を励ましながら、ようやく書写の事業を成し遂げます。

 そこで僧は、例の役人に「『大般若経』を書写し終わりました。費用は後々いただきたく思います。手伝ってもらった仲間も多くおります。まずは供養の法要を営みたいと思います」と伝えると、願主(がんしゅ)の役人は喜んで、さっそく供養を執り行いました。

 ところがその時、突然につむじ風が起こって、お経を全て虚空へと巻き上げてしまいます。聴聞にやって来た人々も不思議に思っていたところ、しばらく経ってからお経は白紙となってハラハラと落ちてきたのでした。

 ただ、よく見ると大きな文字で、四句の偈(経文)だけが紙にはっきりと現れました。その文句には、このように書かれていました。

  願主(がんしゅ)の檀那(だんな)は不信ゆえ、
  料紙(りょうし)は本土(ほんど)に還(かえ)る。
  経師(きょうし)は信(しん)有るゆえ、
  文字は霊山(りょうぜん)に留(とど)まる
(役人には信仰心がないから、紙はそちらに返す。僧には信仰心があるから、文字は仏のもとに留まる)
              (『十訓抄』)

 僧や仲間は、ひたむきに一字一句を書写し続けました。時にはお経を唱えながら、手を合わせる日もあったでしょう。対して役人は、口先だけで騙していました。同じ言葉でも、一途な信心から生まれた僧の言葉は正語(真実)であり、不信心の役人の言葉は妄語(偽り)であったのです。仏様は、行為のみならず、心の中の清らかな本質を見抜いていたのでしょう。

  渓声(けいせい)便(すなわ)ち是(これ)広長舌(こうちょうぜつ)
  山色(さんしょく)豈(あに)清浄身(しょうじょうしん)にあらずや
                 (『蘇東坡詩集』)
(渓谷の水の音はお釈迦様の声、深山の景色はそのまま仏様の清らかな姿)

 心の乱れを感じたら、自然の中の仏様を感じてみてはいかがでしょうか。桜の花言葉は「精神の美」。言葉を「散り乱す」のではなく、桜の花びらのような「真実の言の葉」を、奥ゆかしく散らしたいものです。

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最後までお読みくださりありがとうございました。