石段を登り切ったところに咲いている小さな花。
何という名前でしょうか。
ひっそりとお出迎えしてくれます。
今回の文章は、八正道の「正思惟(しょうしゆい)」をテーマに、相手を心に浮かべ、深く考えることについて書いたものです。
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「法の水茎」57(2017年3月記)
寂しかった山間の地にも、光の春が巡ってきました。清廉な梅が香に誘われた鶯が、枝先で嬉しそうに囀っています。それはまるで、今年も艶やかな装いをして待ってくれていた梅の木に、「ただいま」の挨拶をしているようです。
山里に 住む甲斐あるは 梅花
見つつ鶯 聞くにぞありける
(『貫之集』)
(山里に暮らす甲斐があるのは、咲き誇った梅の花を愛でながら、鶯の声を聞くことであるよ)
梅は、松・竹とともに「歳寒三友」(冬の寒さに堪える3種の植物)の1つとして讃えられます。厳しい時節にあっても気品を失わない梅の花に、私たちは鶯と同じように心を奪われるのでしょう。
3月は「弥生」「花月」「花見月」とも呼ばれるように、草木が芽吹き、さまざまな花が咲き初める季節です。下旬にもなれば、桜の便りも気になるでしょう。
とにかくに 目かれぬものを 昼夜の
同じ時なる 花と月とは
(『為家集』「彼岸」)
(とにもかくにも目を離さないで眺めていたのに、昼夜が同じ長さの彼岸には、いつのまにか桜と月が近づいていたよ)
この歌にある「昼夜の同じ時」とは、昼と夜の長さが同じになる、お彼岸(3月17日から23日)の時期を指します。いつもは別々に鑑賞していた花と月も、今は満開の夜桜に、清かな春の月光が降り注いでいるかもしれません。それはまさに「桜月」にふさわしい春爛漫の光景です。
お彼岸の「中日(ちゅうにち)」(20日)は、国民の祝日(春分の日)です。昭和23年(1948)7月20日に公布された「国民の祝日に関する法律」によれば、春分の日は、
自然をたたえ、
生物をいつくしむ。
(第2条)
日と定められています。自然の息吹を全身に感じながら、身心を浄め、この世に生を享けた喜びを分かち合う折節でもあるのでしょう。
自然を慈しむといっても、次のような愛で方には困ったものです。
昔、京都の七条通の南に輔親(すけちか)(954~1038)という歌人が住んでいました。
春の初めのこと。軒近くの梅の木に、いつも10時頃になると鶯がやって来て鳴いていました。輔親は珍しいと思って、周りの有名な歌人たちに告げ知らせ、「明日の8時くらいにいらっしゃって、ぜひ声をお聞きください」と触れ回りました。
その日、夜勤の武者には、「決して鶯を叩いたりして、追い払うでないぞ」と言うと、男は「そのようなことは、いたしません」と返事をしたのでした。
さて、いよいよ当日のこと。輔親は、いつもより早起きをして準備を整えます。8時頃になると歌人たちが集まり始め、今か今かと歌を詠み合っていましたが、その日に限って正午を過ぎても鶯の姿が見えません。
不審に思った輔親は、夜勤の男を呼び寄せ、「どうして今日はやって来ないのだ」と尋ねます。すると、男は「鶯はいつもより早めに来たのですが、帰ってしまいそうだったので捕らえておきました」と答えると、奥から木に縛り付けた鶯を持ってきます。唖然とする皆を前に、男は「昨日の仰せを受けて、もし逃がしでもしたら屈辱になると思い、このように射落としたのでございます」と得意気に語ったのでした。
それは興ざめとも言えない程、本当に愚かな出来事でした。
(『十訓抄』)
男は、輔親の命令に背くまいとしていました。可愛らしい鶯を逃がしてはなるまいと、射落として手元に置くことを咄嗟に思いついたのでしょう。男は悪びれもせずに、「正しい」行いをしたと思い込んでいます。「愚直」と言えばそれまでですが、あれこれ思いを巡らす前に、命を奪う「殺生」の罪を犯したことは、やはり「愚かな」行動であったと言わざるを得ません。
射殺された鶯は、どこへ旅立ったのでしょう。もしかすると、故郷の山里に帰って行ったのでしょうか。
呼子鳥(よぶこどり) 憂き世の人を 誘ひ出でよ
入於深山(にゅうおじんせん) 思惟(しゆい)仏道
(『秋篠月清集』)
(呼子鳥よ。苦しい世に生きる人を誘い出してよ。深い山に入って、幸せとは何かを考えるように)
「呼子鳥」とは、郭公(かっこう)とも鶯・時鳥(ほととぎす)とも言われます。春から夏にかけて、子を呼ぶように鳴くから名付けられたとか。歌にある「入於深山(にゅうおじんせん) 思惟(しゆい)仏道」は、
また菩薩(ぼさつ)の
勇猛精進(ゆうみょうしょうじん)し、
深山(じんせん)に入りて
仏道を思惟(しゆい)するを見る。
(『法華経』序品)
というお経の一節を詠み込んだものです。「思惟(しゆい)」とは「相手を心に浮かべ、深く考える」という意味ですが、自然の中に身を投じれば、「正しい考え」(正思惟(しょうしゆい))が身につくでしょうか。鶯の谷渡りに引かれていけば、いつかは「幸せの到彼岸(とうひがん)」が見えてくるかもしれません。
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最後までお読みくださりありがとうございました。