瓢箪池のほとりに山吹が咲いています。
控え目ですね。
この時期の蛙の鳴き声との共演も風流です。
庭先には別種の白山吹も咲いてきました。
今回の文章は、四苦八苦の「病苦」をテーマに、「病は気から」の意味について書いたものです。
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「法の水茎」38(2015年8月記)
夏と秋と 行きかふ空の 通ひ路は かたへ涼しき 風や吹くらむ
(『古今集』躬恒)
(夏と秋がすれ違う空の道には、片方にだけ涼しい風が吹いているのだろう)
今年は8月8日に秋の始まりとされる「立秋」を迎えました。古くは「秋立つ」と呼ばれ、この頃からは朝夕の風にも秋の訪れを感じます。ふっと空を見上げれば、夏の夕立を運んできた入道雲に変わって、いつしか天高く鰯雲が棚引いています。さざ波のように見える空の道には、どのような涼風が吹き渡っているのでしょうか。
季節の変わり目には、何かと体調を崩しやすいものです。この時期なら「夏バテ」(夏負け)もあるでしょう。真夏の直射日光や暑さによる疲れは、最近では「八月病」とも言われるようです。「五月病」はよく耳にしますが、心身の不調は季節を問わず、いつも身近に潜んでいるのでしょう。
仏教では、病気になることを「四大不調」と言います。「四大」とは、この世界の全てを形づくる「地・水・火・風」の4つで、これらは人間の身体にも欠かせません。例えば、「火」が盛んになると発熱を起こすように、それぞれの調和が乱れると、心にも身体にも悪影響を及ぼします。
「百八煩悩」という仏教語があるように、人間には108の悩み事(欲望)があると言います。では、病気にはどれくらいの種類があるのでしょうか。もちろん医学の進歩によって日に日に新発見がなされていますが、仏教では404種類の病原があると説きます。先ほどの「四大」に当てはめて、「地」の病に101、「水」の病に101、「火」の病に101、「風」の病に101あって、合わせて「四百四病」となるのです。
中国の道宣(596~667)という僧侶は、
四百四種の病は、宿食を根本とす。
(道宣『浄心戒観法』)
と語りました。万病の元とされる「宿食」とは、食べ物が消化されないで胃の中にある状態を意味します。まさに夏の終わりに気をつけたいことでしょう。また、これは食べ物にかかわらず、心のしこりを抱えたままの生活にも通じる戒めと思われます。
病気から思い起こされる諺に「病は気から」があります。一般に、病気は気の持ちようで軽くもなり、重くもなると言う意味ですが、では、具体的にどのような気持ちで過ごせば良いのでしょうか。
江戸時代の『耳嚢』という書物に、玄武庵という100歳くらいの医者が語った言葉が書き留められています。
人は、欲望のために自分に勝つことができず病を起こすのです。田畑や草木を育てるような気持ちで工夫をしてみてください。人間から鳥獣・草木に至るまで、自性(そのものが備えている性質)と適応すれば病気になることはありません。
もし、田んぼに植えるものを畑に植え、肥やしのいらないものに、必要以上に肥やしを与えたならば、全ての作物に病が出てしまいます。
人間も同じです。一人一人が自分に相応しい毎日を送れば、病気にはならないはずです。己に勝つことができない凡情(つまらない感情)によって自身に負けて、飲食や衣服をはじめ、度を超えた生活から病が起こります。これを「病は気から」と言うのです。
(根岸鎮衛『耳嚢』)
これまで私は、「病は気から」について、何となく気持ちをしっかりと引き締めるという程度の意味合いで考えていました。しかし、この老練な医師の教えによって、正しく自然と一つになることが病にかからない秘訣であることを知りました。これは、先に述べた自然と自分の「四大」(地・水・火・風)を重ねて、一体となって生きることとも結びついているでしょう。
お釈迦様の在家信者であった維摩は、次のような言葉を発しました。
衆生病めば、
則ち菩薩も病み、
衆生の病癒ゆれば、
菩薩もまた癒ゆ。
(『維摩詰所説経』)
(人々が病気になれば私も病み、人々の病気が治れば、私の病も消え去る)
維摩のような優れた修行者であっても、病を得ていたと言います。ただし、この維摩の病は、全てを幸せに導くために抱え込んだ「慈しみの病」なのでしょう。
生きていれば必ず病があります。しかし、全ての苦しみに寄り添い、自然と共に歩み始めたとき、少しずつ病は消え失せていくでしょう。それは大空に夏から秋への通い路があるように、心地良い風をいち早く感じる近道なのかもしれません。
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最後までお読みくださりありがとうございました。