坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「老い」のお話①~煩悩あれば菩提あり、囲碁の黒石と白石~「法の水茎」36

昨日は夕方から豪雨になりました。
ほんの1時間ほどでしたが恵みの雨となりました。

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タンポポ

タンポポも元気に背伸びをしています。
毎日見ていると、綿毛になってからの方が成長が早いように見えるのですが。。。気のせいでしょうか。芝桜も色とりどりです。


今回の文章は、四苦八苦の「老苦」をテーマに、人が「生い立つ」(老い立つ)ことの美しさについて書いたものです。

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「法の水茎」36(2015年6月記)



  徒然と 音絶えせぬは 五月雨の 軒の菖蒲の 雫なりけり
                  (『後拾遺集』橘俊綱)
(ずっと音が絶えないのは、家の軒先に差し掛けた菖蒲に伝っている、五月雨の雫の音だったのだなあ)

 陰暦5月(新暦では5月下旬から7月上旬)に降る長雨のことを「五月雨」と言います。五月雨の「さ」は、「五月」「皐月」「早苗月」の「さ」と同様に、田植えを指す古語から転じたもので、「みだれ」には「水垂れ」(垂れ落ちる水)の意味があると言われます。「梅雨」という言葉に、梅の実が「熟す」(つはる)という語源があるように、「五月雨」もまた自然の変化と結びついた表現でしょう。

 歌にある「徒然」には、一人寂しく、次から次へと物思いに耽る様子も込められています。五月雨が降ることを「五月雨る」と言い、和歌では「さ乱る」(乱れる)という意味が掛けられます。私には「つれづれ」という響きに「ぽつぽつ」という雨音も感じられるのですが、そうした単調な音の調べは、いつしか心の内側をもトントンと叩いているのでしょうか。

 高尾山では今頃、春蝉(松蝉)も鳴いていることでしょう。春蝉は、夏の蝉よりも早く、5・6月頃に地上に現れます。

  珊々と 松蝉の声 揃ひたる
             (高浜虚子)

 松林で一斉に鳴き始めた春蝉の声は、まるで合唱のように調和します。この名句の初句「珊々と」には、五月雨のように絶えず鳴き交わす姿とともに、短いながらも生を謳歌する、一つ一つの命の輝きも込められているように感じます。

 動植物は、自然の恵みによって生を享け、少しずつ成長していきます。樹木であれば、種から若木、大木へと育ち、やがて実を結ぶものもあるでしょう。

 では、私たち人間はどうでしょうか。誕生から青年期、働き盛りの壮年期、中年期から老年期へと毎年一つずつ齢を重ねます。かつては、「初老」とされる40歳を迎えると「四十の賀」、50歳になると「五十の賀」のお祝いをしました。「算賀」と呼ばれる高齢の祝賀は、40歳から10年ごとに行い、今では還暦・古稀・喜寿・米寿などの祝いも含まれています。人間が「生い立つ」ことは、そのまま「老い」ることに他なりませんが、それは全ての命あるものと同じように喜ばしいことなのです。

 とは言うものの、見た目も年齢とともに移ろいます。いつの間にか額には波を湛え(皺)、髪や眉には雪や霜が降ります(白髪)。誰もが通る道とは知りながら、心配事も積ります。悲しみを取り去るためには、やはり厳しい修行が必要なのでしょうか。

 鎌倉時代の説話集に次のような話があります。

 昔、天竺(インド)に一つの寺があり、たくさんの僧侶が住んでいました。達磨和尚が中の様子を御覧になると、ある部屋では仏を念じ、あるいはお経を唱え、様々に修行をしていました。

 別の部屋を御覧になると、8、90歳ほどになる老僧が、2人で囲碁を打っています。近くには仏像もなく、お経も見えません。ただただ囲碁を打つばかりです。

 達磨が他の僧に聞いてみると、「この老僧2人は、若い頃から囲碁のほかには何もしたことがない。仏の教えも聞いたことがないのだ。それで寺の僧は、2人を憎しみ卑しんで付き合わないのだよ」と答えるのでした。

 これを聞いて「おそらく理由があるのだろう」と思い、この老僧の側で囲碁を打つ様子を見ていました。すると1人は立ち、1人は座っていると見るうちに、たちまちに2人とも姿を消し、立っていた僧が帰ってきたかと見ると、また座っている僧が消えてしまうのでした。

 達磨は「そういうことか」と納得し、老僧に話しかけてみると、次のように答えました。「長年、この他のことは何もしていません。ただし、黒が勝つ時は、自分の煩悩(悩みの心)が勝ったと悲しみ、白が勝つ時は、菩提(悟りの心)が勝ったと喜ぶのです。打つことによって黒が失われ、白が勝つことを願います。この功徳(善い行い)によって悟りの身となったのです」と。

 達磨和尚がそのことを他の僧に話されると、ずっと嫌っていた人々も後悔して、尊敬するようになったのでした。
             (『宇治拾遺物語』)

 「煩悩あれば菩提あり」という言葉のように、碁石には黒石と白石が付き物です。ここに登場する老僧は、先手(黒)が優勢となる囲碁を打ちながら、煩悩の黒石を減らすことを願いました。浄らかな白一色になることは難しくても、年輪を刻みながら「心の碁盤」に白色の世界が増えていったのでしょう。たとえ身近な事柄であっても、心の持ちようによって幸せへの架け橋となることを、教えてくれているように思います。

  命嬉しき長生きの、
  あつぱれ老いの思ひ出や。
        (謡曲『金札』)

 人が「生い立つ」ことは、古木が枝を張って、見事に「老い立つ」ことにつながるのでしょう。曇のない眼に、少しずつでも近づいていきたいと、雨に濡れた御神木を見上げながら念じます。

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最後までお読みくださりありがとうございました。