スイセンがキレイに咲いています。
お地蔵様の口許も、何となくほころんでいるようです。
黄色いスイセンの花言葉は「私のもとへ帰って」だそうです。
お寺に咲く草花の花言葉を調べるのも楽しそうですね。
今回の文章は、六根の「眼」をテーマに、紅葉や、移り変わる自然の姿について書いてみたものです。季節は違いますが、桜の花びらにも当てはまるのではないでしょうか。
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「法の水茎」29(2014年11月記)
朝まだき 嵐の山の 寒ければ 紅葉の錦 着ぬ人ぞなき
(『拾遺集』藤原公任)
(朝、まだ夜の明けきらない頃、嵐の山は寒いので、紅葉が身体に降りかかり、錦の衣を着ていない人は一人もいない)
朝夕に肌寒さを感じ、冬の足音が近づいてくると、色づいた木々の梢が、少しずつ山の頂から麓へと降りてきます。紅や黄色に染め上げられた光景は、まさに「赤地の錦」といった装いです。
江戸時代末期の文人、斎藤月岑(1804~1878)は、江戸の年中行事を記した『東都歳事記』の中で、紅葉は「立冬より7、8日目頃より」が見頃となると語っています。今年の立冬(暦の上での冬の始まり)は、11月7日。高尾山は今、お山全体が「錦の衣」(美しい衣服)を身に纏っていることでしょう。
紅葉の中でも、とりわけ華麗な表情を見せる「カエデ」(楓)は、葉の形が「蛙の手」に似ているところから、古くは「蛙手」と呼ばれていました。可愛らしいその姿は、「五歳になりし一万も楓のやうなる手を合せ」(『曽我物語』)とあるように、子供の小さな手にも喩えられます。
秋の紅葉は、春の桜と並んで昔から親しまれてきました。山野に紅葉を求める「紅葉狩」は、すでに奈良時代の『万葉集』の歌に見られ、物語や絵画にも多く描かれています。
平安時代の終り頃のお話。時の帝であった高倉天皇(1161~1181)は、すぐれて優雅で、人望があり、幼い時から優しい性格でいらっしゃいました。
10歳くらいの頃、たいそう紅葉に心ひかれ、近くに小さな山を造らせ、そこに櫨や楓)の色美しく紅葉したのを植えさせました。「紅葉の山」と名付けられた岡は、一日中ご覧になっても飽きることがありませんでした。
ところがある夜、野分(秋から初冬にかけて吹く強い風)が吹き荒れて、紅葉を全て散らします。すると召使いの者は、朝の掃除の際に落葉を掃き捨て、残った枝や散った木の葉をかき集めて、なんと酒を温めるための薪にしてしまったのでした。
いつもより早く出仕した当番の役人は、跡形ない庭の様子に驚きます。役人は、帝からどんなお叱りを受けるだろうと恐れおののくのでした。
そこにいつもより早く帝がお出ましになり、庭をご覧になると、さっそく理由をお尋ねになります。役人は、包み隠すことなく、ありのままに申し上げたのでした。
すると帝は機嫌良くお笑いなさって、白楽天(772~846)の「『林間に酒を煖めて紅葉を焼く』(林の間で紅葉をかき集め、それを焚いて酒を温める)という詩の意味を誰が教えたのだ。風流をいたしたものだな」と言って、むしろお誉めになったのでした。
(『平家物語』巻六「紅葉」)
帝は、ただ目の前の紅葉を愛でるだけではありませんでした。眼前にはない、先人の紅葉への情感にも思いを馳せていたのです。また、いつもより早くお出ましになった背景には、紅葉の盛りだけではなく、野分に散り敷いた紅葉の風情にも「美」を見出していたからなのかもしれません。
散らねども かねてぞ惜しき もみぢ葉は 今は限りの 色と見つれば
(『古今集』読人しらず)
(紅葉は散り始めてはいないけれど、散る前から惜しまれる。今が最後の美しさに輝いていると見えるから)
紅葉もいつかは散るものです。むしろ移りゆくことを観じるからこそ、今この瞬間が、より煌めいて映るのでしょう。
心ある人は、花の散り、
木の葉の散るを見て、
飛花落葉の観とて、
生死の無常を覚り侍りけり
(『宝物集』巻2)
春に咲く花もやがて散り、青葉も秋になれば色が変わって散るという自然の姿を観じることは、風流の心を育むとともに、人生や世の中の儚さを知ることにも繋がっているのです。
懈怠の時には、生死無常を思へ。
(『一言芳談』)
(魔が差した時には、人生の短さを思え)
儚さを自覚すれば、錦秋に染まる紅葉のように、人生の美しさが増すでしょうか。高尾山の錦の衣をまといながら、照葉によって心の中を照らしたいと思います。
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最後までお読みくださりありがとうございました。