坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「聞く」お話②~耳を傾けて、清らかに色づいて~「法の水茎」28

今が満開です。

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満開

これまで、春が年々短くなっていると感じていましたが。。。今年は桜も満開の姿を長く見せてくれています。

今回の文章は、六根の「耳」をテーマに、菊と聞くとの関わりについて書いてみたものです。

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「法の水茎」28(2014年10月記)




  不是花中偏愛菊
  此花開盡更無花
(是れ花の中に偏に菊を愛さず。此の花開きて後、更に花の無ければなり)
                 (『元氏長慶集』「菊花」)
(多くの花の中で、私は菊だけを愛するわけではない。この花が開き終わった後は、来年の春までは花らしい花がないからなのだ)

 そろそろ菊の花が開花し、「菊まつり」なども開催される時節でしょうか。旧暦の9月は「菊開月」「菊月」とも呼ばれるように、色とりどりの花弁が咲き誇ります。

 「菊」の字は、もともとは「鞠」と書きました。奈良時代に薬用として日本に伝わったとされる菊は、文字通り「鞠」のように可愛らしい形から観賞用としても愛でられ、春の桜とともに、古くから日本人に親しまれてきました。

 旧暦9月9日(今年は10月2日)は、中国を起源とする「重陽の節句」(菊の節句)です。邪気を払い、長寿を祈って、杯に菊花を浮かべた酒を酌み交わし、また収穫の時期と合わせて、栗ご飯などを炊いてお祝いします。

 秋の夜長に外面を眺めれば、月の光が照り輝いている折もあるでしょう。「後の月」とも呼ばれる9月の13夜(今年は10月6日)は、8月の十五夜に次いで美しい月と誉め称えられています。

  籬なくば 何をしるしに 思はまし 月にまがよふ 白菊の花
                      (西行『山家集』)
(ませ垣がなかったならば、何を便りに知るだろうか。月の光に照らされる白菊の花を)

 垣越しに仄かに浮かび上がる白菊の姿は、水面に映る月影のように、月光と見分けることもできないほど澄み渡っていたのでしょうか。あるいは、葉に置いた秋露によって、いっそう輝きを増していたかもしれません。

  世の中の 悲しきことを きくの上に 置く白露ぞ 涙なりける
                    (『後撰集』藤原守文)
(世間の悲しい出来事を耳にして、菊に降りた白露が涙の玉であることを知ったよ)

 歌の中の「きく」には、「菊」と「聞く(聴く)」とが掛けられています。感覚を研ぎ澄ませていたからこそ、人の世の移り変わりと、秋の夜の一瞬の煌めきを重ね合わせることができたのでしょう。

 菊は、お仏壇やお墓にお供えする花としても、仏様の教えと深く結びついています。仏教と同じように中国から日本に渡ってきた菊ですが、中には次のような話も伝わっています。

 菊という花は、玄奘三蔵という僧侶が、インドの摩伽陀国の王舎城から花の種を貰ってきて、中国の長安城の宮中に植えた。それを仁徳天皇の御代に貰い受けて日本の宮中に植えたのである。

 この菊の花は、根本は1本だが、枝は5本に分かれていて、東の枝は青く青色の花が咲き、南の枝は赤く赤色の花が咲き、西の枝は白く白色の花が咲き、北は黒く黒色の花が咲き、中央の枝は黄色く黄色い花が咲いた。世の中にこれ以上の宝はないだろうと思われるほどだった。
                             (『神道集』)

 王舎城は、お釈迦様が亡くなられた後に、最初にお経を編集(結集)した場所として知られています。そこに咲いていたかもしれない五色に彩られた「菊」には、果たして仏様の声を「聞く」という教えも込められているのでしょうか。

 お釈迦様の十大弟子の一人に、阿難尊者という方がおられます。25年もの間、常にお釈迦様に付き随って、多くの説法を聞き知っていたことから「多聞第一」(仏法を聞くことに最も優れた者)と讃えられました。王舎城でお経を編集する際には、中心的な役割を担ったと言われています。

 阿難尊者が聞いた中には、次のような話も伝わっています。

 今は昔。祇園精舎(お釈迦様の寺院)におられるときに、一人の天人が空から下ってきました。お釈迦様は天人をご覧になると、四諦(人生の4つの真理)の教えを説きました。天人はこの法を聞いて、忽ち法眼(生きとし生けるものを救う智慧の眼)を得たのでした。

 阿難は「なぜ天人に法を説いたのですか」と尋ねます。するとお釈迦様は答えました。「この天人は、このお寺を造っているときに、召使いとして寺の庭や道を掃除していた者だ。その善根(善い行い)によって天上に生まれ、生まれ変わって再び私の所に来て法を聞いたのだ」と。

 修行をしようと思わなくても、お寺を清めた功徳は大きいものです。なおさら仏道に専念して庭を掃き清めた者の功徳は言うまでもありません。
                   (『今昔物語集』巻2)

 そのお寺は清浄に保たれ、庭にはさぞかし見事な草花が咲いていたことでしょう。「門前の小僧習わぬ経を読む」という言葉もありますが、お寺の庭や道を清めているうちに仏の心も育んでいたのではないでしょうか。

  一文一偈を聞く人の、仏に成らぬは一人なし
               (『梁塵秘抄』)
(お経を聞いて仏にならない者は、誰一人としていないのだ)

 盛りを過ぎた白菊の表は、やがて紫がかって、ひときわ優美な姿を見せると言います。「一年に二度の盛りを迎える花」として愛でられる「移菊」のように、私たちも自然に溢れる仏様の声に耳を傾けながら、清らかに色づいていきたいと思います。
 

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最後までお読みくださりありがとうございました。