坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「心」のお話①~秋のお彼岸、天上界に咲く蓮華の花~「法の水茎」27

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今日は朝から竹を切って頂いてます。

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竹林

お寺の墓地前にある竹林。
だいぶ密集してきたので間引いてもらうことにしました。
最近は竹の用途がなく、竹切り職人の方も減ってしまいましたが、なんとかお願いできました。
これで光が射し込み、お墓からの眺めも良くなるでしょう。


今回の文章は、六根の「心」をテーマに、秋のお彼岸について書いてみたものです。



    ※      ※

「法の水茎」27(2014年9月記)



  間もなく「お彼岸」を迎えます。春のお彼岸に対して「後の彼岸」とも呼ばれる「秋の彼岸」は、秋分の日(9月23日)を中日として、前後3日を合わせた7日間です。初日(20日)は「彼岸の入り」、最終日(26日)は「彼岸明け」と言われます。

 今から760年ほど前の建長5年(1253)に詠まれた和歌に、

  夜昼の 等しき秋に 成りにけり 春の半ばを 今ぞと思へば
                     (『為家集』「彼岸」)
(夜と昼の長さが同じ秋になったよ。春の半ば(仲春)を今だと思うと)

という秋彼岸の歌があります。昼夜の時間が等しく、太陽が真東から昇り真西に沈み行くこの時節は、足早に過ぎ去った春をも思い起こさせるのでしょう。思えば、桜の開花を心待ちにしていた日々から早くも半年が経ち、今は土手や田んぼの畦道にも「彼岸花」が盛んに咲いています。

 赤く艶やかな彼岸花は、別名を「曼珠沙華」と言います。曼珠沙華は、天上界に咲く蓮華の花。これを見る者は、そのまま悪業(苦しみを生み出すもの)を離れることができると伝えられています。

 さて現在、秋彼岸の中日は秋分の日として「国民の祝日」となっています。この日には、何を祝い、何に感謝するのでしょうか。

 昭和23年(1948)7月20日に公布された「国民の祝日に関する法律」によれば、秋分の日は、次のように定められています。

  秋分日 祖先を敬い、
  亡くなった人々を偲ぶ。
        (第2条)
 お彼岸は、ご先祖様を貴び、亡くなられた方々を静かに思い返す時期です。お盆と同じようにお墓参りをして、この世に生を享けたことに心から感謝します。

 お寺でも「彼岸会」という先祖供養の法会(法要)が営まれます。平安時代の女流日記『蜻蛉日記』に「彼岸に入りぬれば、なほあるよりは精進せむとて」(彼岸に入ったので、何もしないよりは精進をしようと思って)とあるように、お彼岸は自分自身も心身を浄め、何時にも増して仏道修行に励みます。

 ご存じのように「彼岸」とは、「河の向こう岸」(彼の岸)を意味します。仏様の「悟りの世界」です。それに対して、私たちが住んでいる世界を「此岸」(こちらの岸)と言います。人間の「悩み多き世界」です。2つの岸の間には、大きな河が流れていて、向こう岸に渡るのは容易ではありません。

 はるか昔のお話。日ごろ何となく宮中に仕えていた女房が、清水寺に籠ってお祈りをしていたときのこと。そこに色が白く、影のように痩せ細った尼(尼僧)がやって来て、物乞いをして歩いていました。季節は初冬の寒い頃で、破れた帷子(裏をつけない衣服)の上に、簑(雨具)を重ねて着ていたので、それを見た人は「まあ、かわいそうな格好。雨も降らないのに、なぜ簑を着ているの」と聞きます。

 尼が「このほかに着物を持っておりませんので、寒さに堪えられません。どうしようもなくて……」と答えると、周りの人々は「暖まりそうにもないわね」などと言って鼻先で笑ったのでした。

 食べ物を与えると、それを食べて去って行きましたが、女房は何かを感じたのでしょうか、尼を呼び返して、単衣(裏のない衣)を施します。

 すると尼は悦んで立ち去ると思いきや、すぐに寺の奉納所に向かいました。そこで筆を求め、美しい文字で歌を書き付けると、貰った単衣を供えて、どちらともなく姿を消したのでした。

  彼の岸を 漕ぎ離れにし あまなれば おしてつくべき うらも覚えず
(悟りの岸に向かって、私は海女のように漕ぎ出した尼なのです。僧侶として単衣の着物を身につけ、辿り着くべき浦も分からないのです) 
                   (『十訓抄』上)
 仏様に奉納した和歌には、尼の素直な心境が詠み込まれています。彼の岸に向かって、海女さんのように岸を離れた尼は、僧侶が身にまとう単衣の衣を着て、まだ見ぬ幸せの浦を目指しているのです。

 尼は苦しみの荒波にもまれ、寒さにもじっと堪え忍ぶお姿をしていたことでしょう。施された着物をお供えすることにより、これから進むべき通い路(道筋)を仏様に願ったのかもしれません。尼の心は、限りなく透明に澄み渡っているのです。

  六根無垢なる故に、心性も清浄なり。
  なおし清水と月輪の如し。
           (覚鑁『阿字観』)
(六根の汚れがなければ、心も浄らかである。それはまるで澄んだ水面に映る満月(悟りの心)のようなものである)

 彼の岸には、どのような波が打ち寄せているのでしょう。「渡りに船」(『法華経』「薬王菩薩本事品」)という言葉もありますが、秋の夜空を見上げれば、皓々たる月影が辺り一面を照らしています。月を便りに心を澄ませば、いつしか「余所事」と思っていた向こう岸が、近づいていることでしょう。

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最後までお読みくださりありがとうございました。