花冷えが続いています。
昔の写真を見ていたら、去年は4月の1日にお花見をしたようです。今年は少し足踏みしていますね。
梅の花に雪は風流ですが、桜に雪が降りかかるのは。。。ちょっと桜にかわいそうでしょうか。
草花を見ていると心が安まりますが、今回の文章は「怒り」をテーマに書いてみたものです。怒りの感情を抑えるのは、なかなか難しいものです。
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「法の水茎」18(2013年12月記)
今年も「師走」を迎えました。師走という言葉の由来は、「師僧(師匠)がお経をあげるために走り回る月」からとも、何かと事が多くて「忙しい月」からとも言われます。時の流れのはやさを実感する月でもあります。
歳末の大掃除も、恒例行事の一つでしょう。もともとは、正月の神(年神)をお迎えするための「煤払い」(煤掃き)として始まり、12月13日に行われました。高尾山薬王院でも、13日には山内の大掃除が行われ、18日には「おみがき」と呼ばれる仏器(仏具)をピカピカに磨く行事が執り行われます。一年の間に積もった屋内の煤ほこりを払い清めながら、心の中も祓い清めて、すがすがしい気分で新年を迎えます。
とは言うものの、何となく落ち着かない日常の中で、なかなか自分自身を振り返る時間が持てないのも現実でしょう。いつの間にか心の余裕もなくなり、ついついちょっとしたことに腹を立てたり憤ったり。感情を顕わにしてしまいがちです。大掃除の後のように、いつも心を美しく保ちたいと願いながら、なかなか上手くいきません。
仏教では、怒ったり恨んだりすることを「瞋恚」と呼びます。人間に本来から備わる煩悩(心や身体を悩ませるもの)として、欲深い心(貪欲)や心の迷い(愚痴)とともに3つの毒薬(三毒)の1つとして戒めます。除夜の鐘を108回撞くのは、人間の煩悩(百八煩悩)を除くためとも言われますが、こうした怒り・恨み・妬みのような根源的な心の垢は、簡単には落しきることができないようです。
ところで、人間はなぜ怒るのでしょうか。兼好法師(1283頃~1352以後)は、『徒然草』の中で次のように語っています。
万の事は頼むべからず。愚かなる人は、深く物を頼む故に、恨み、怒る事あり。
(『徒然草』211段)
(どのようなことでも頼りにすることはできない。愚かな人は、深く頼りにし過ぎるために、人を恨んだり怒ったりしてしまう。)
人間は、他人のことはもちろん、財産や名誉などにも頼みをかけて、知らず知らずの内に振り回されてしまうものです。自分の思い通りに進まないと、どこかに潜んでいた怒りの感情がすぐさま顔を出してきます。ましてや必要以上に心をかけて裏切られたときの怒りは、計り知れないものがあるでしょう。
怒り(瞋恚)をめぐっては、次のような話が伝わっています。
今は昔、仏が乞食修行をなされていた時、とある家に立ち寄りました。するとその家の主人は、米と魚を混ぜ合わせたものを犬に食べさせていました。仏は犬に語ります。「お前は前世で天界に生まれることを願っていたのに、なぜ今このような姿でいるのだ」と。犬はこれを聞いて腹が立ち、うずくまって不機嫌そうにしてしまいました。
その後、主人は仏のもとを訪れます。飼い犬を怒らせたことに対し、大きな瞋恚を起して仏を罵りました。仏は、激しく怒る主人に対して「知らないのか。この犬は、お前の父親なのだ。今は犬となってお前に養育されているのだぞ」と語り、さらに「家に帰ったら錦の座(敷物)を敷き、金の鉢に御馳走を入れたものを乗せなさい。そして犬に向かって『もし私の父ならば、この座に登り食物を受け、また隠してある財宝のありかを教えてください』と言うように」と告げました。
主人は怒りが収まらないながらも家に帰り、言われたとおりにしてみました。すると、犬は座に登り食事をし、食べ終わると近くの土を鼻で嗅ぎ、足で掘り始めます。主人は怪しみ、さらに深く掘り起こしてみると、そこには多くの金銀財宝が埋め置かれていたのでした。
(『今昔物語集』巻3)
ここに登場する犬は、前の世では天上世界に生まれることを願って生活していました。ただ、最後まで財宝を頼みとしたために悪縁(悪い結果を生み出すもの)に導かれ、瞋恚の心が寄り添ってしまったのでしょう。
若人造功徳 積如須弥山
一起瞋恚心 一時皆消滅
(『宝物集』)
「功徳(善い行い)を高く積み上げたとしても、ひとたび瞋恚の心を起せば一瞬にして消え去ってしまう」という教えもあります。この話の中で、主人は仏に対して罵詈雑言を吐きました。もしかすると父親の瞋恚心が息子(主人)に移ってしまったのでしょうか。仏は「端正なる者は、先生に祖に咲て見えし者ぞ。醜悪なる者は、先生に祖に瞋恚を発さしめし者ぞ」(立派な人は、前世に親に笑顔で接した者。意地悪な人は、前世に親に心労をかけた者)とも語っています。笑顔(微笑み)の大切さについては先に述べましたが、日頃の何気(なにげ)ない習慣が、善悪の報いとなって返ってくるのかもしれません。
よしなしな 争ふことを 楯にして 瞋をのみも 結ぶ心は
(西行『山家集』)
(つまらないことだなあ。争うことを旨として、怒りばかりで構える心は)
「怒り」は「碇」(海底に沈めるおもり)に通じ、落ち着かせることを「碇を下ろす」とも言います。冬の高尾山に登ったら、眼下に広がる雲海に、心の碇を下ろしてみてはいかがでしょうか。どこまでも、どこまでも広がる世界に、いつしか日頃の怒りも消え去っていることでしょう。「八つ当たり」しようと思っても、跳ね返ってくる壁も、見当たらないのです。
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