坊さんブログ、水茎の跡。

小さな寺院の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。普濟寺(普済寺/栃木県さくら市)住職。

「地」のお話②~花祭り、桜、自然の息吹を感じて~「法の水茎」10

日に日に春の草花が咲き出しています。
 

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色とりどり

今日の文章は、前回に続いて「地」をテーマに、お釈迦様の誕生を祝う花祭りや、自然の息吹に触れることの大切さについて書いたものです。
6年前に書いたものですが、4月号ということで、これからの季節に合っているかと思います。
よろしければお読みいただけると嬉しいです。


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「法の水茎」10(2013年4月記)

 

  世中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし

 美男として伝わる在原業平(825~880)は、満開の桜花を愛でながら「もしもこの世の中に、桜というものが全くなかったならば、春の心はきっと穏やかだろうに」と呟きました。

 この業平の思いに、首をかしげる方もおられるでしょう。桜がなかったら、寂しい春になってしまうのではないか、と。

 日本人の多くは桜好きと言われます。桜の開花を今か今かと待ち望み、いざ満開となれば喜びながらも散りゆく姿を惜しみ、花びらを誘う春の嵐には心を痛めます。柔らかな陽射しを浴びながら、心はふわふわと落ち着かない状態が続きます。

 この歌を受けた或る人は、次のような歌を返しました。

  散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき
                         (『伊勢物語』第82段)
(散るからこそ、いっそう桜は素晴らしいのです。この悩み多い世の中に、どうして永らえることができるでしょう……(永遠に存在するものは何もないのです))

 美しいからこその切なさを詠った業平に対し、生れ滅び行く世の中の気高さを褒め称えました。どちらの歌も、無常の世に生を受けたものの相を、情感豊かに描き出していると言えるでしょう。

 季節は短い春が過ぎ去ろうとしています。この世に生きている限り、時の歩みは止まることを知りません。

  折節の移り変るこそ、物ごとにあはれなれ
                         (『徒然草』第19段)

 兼好法師(1283頃~1352以後)は、「季節の移り変わる風情こそ、何事につけても味わい深いものだ」という言葉を残しました。物思いに耽る秋も良いけれど、春の気色(有様)は、ひときわ心が浮き立つと語っています。

 「鳥の囀りが聞こえ、長閑な光の中に草が芽を出し始める。辺り一面に霞がかかると、ようやく桜が咲き始め、そういう時に限って風雨が続いて散り過ぎてしまう。若葉に成り行くまで、春は心を悩ませる」

 桜に限らず、春という季節は、あっという間に通り過ぎます。その移ろいの早さが、人の心を浮き立たせるのでしょう。「浮き立つ」という言葉には、楽しくて落ち着かない心情と、心が乱れて騒がしくなる状態の両面が含まれています。

 四季の変化など、身のまわりに気を遣う(気を配る)ことは、決して悪いことばかりではありません。「心配」とは「心を配る」と書きますが、自然の様々な事柄を「思い遣る」ことは、結局は自分自身の「深い感情」(あはれ)を催す手立てともなります。心と自然とが結びついているところに、兼好は新たな美意識を見いだしたのではないでしょうか。

 こうした感動は、お寺の行事を体験することによっても得られるでしょう。この時期でしたら4月8日の花祭があります。灌仏会・降誕会とも呼ばれる花祭では、お釈迦様の誕生日をお祝いします。『日本書紀』推古天皇の14年(606)4月の条に「是年より初めて寺毎に、四月の八日・七月の十五日に齋を設く」とあるように、お盆とともに古くからの行事です。

 花祭では、お釈迦様の誕生時の像(誕生仏)を拝します。右手はどこまでも高く天に突き上げ、左手はどこまでも深く地を指し示す金色のお姿に、私たちは手を合わせ、頭上から甘露(甘茶)を注ぎます。お花で飾られた御堂の中で御体を潤し、ともにご誕生を祝福するのです。

 いくつになっても、誕生日に「おめでとう」と言われるのは嬉しいものです。誕生仏の愛らしい微笑みに満たされながら、そこに自らの「命」を重ねてみてはいかがでしょうか。きっと、この世に生を授けてくれたご両親への「感謝の心」(ありがとう)も芽生えることでしょう。

  野辺の色も 春の匂ひも をしなべて 心染めける 悟りにぞなる     
                             (西行『山家集)』)
(秋の野辺の色も、春の花の匂いも、すべて仏様の相そのものであり、仏道に深く心を寄せた悟りの境地に通ずるものです)

 私たちは悟りの世界で生活しています。仏の性質を身につけた自然に触れることは、そのまま仏の恵みを受けていることに他なりません。自然の息吹を身体いっぱいに感じて、今生きている(生かされている)ことへの感謝を、あらためて噛み締めたいと思います。

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最後までお読みくださりありがとうございます。