坊さんブログ、水茎の跡。

小さなお寺の住職です。お寺の日常や仏教エッセーを書いてます。

「水」のお話②~西行の滝行、言葉の罪~「法の水茎」3

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 境内に春が満ちあふれています。

 

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境内のしだれ梅

かぐわしい香りが漂い、鳥の囀りが聞こえています。

今回の文章は、水にかかわる滝行について書いたものです。よろしければお読みいただけますとありがたいです。

 

    ※      ※

「法の水茎」3(2012年9月記)

 人間、誰しも「好き嫌い」は付きもののようです。自分にとって好きなものだけを選び取れば「選り好み」となり、嫌いな感情が強くなれば「好悪」となります。偏らない心で、素直に生きたいと願いながらも、なかなか達することができません。



 さて、前号で取りあげた文覚上人(1139~1203)にもまた憎むべき人がいたようです。厳しい滝行によって、効験あらたかな修験者となった文覚でしたが、どうしても西行法師(1118~1190)のことが好きになれませんでした(頓阿『井蛙抄』)。

 理由は、「遁世(俗世間を遁れて仏門に入ること)の身となったのであれば、一途に仏道修行に励まなければならないのに、数寄心(風流な心)を起こし、あちこちで和歌を口ずさんでいる。腹立たしい法師である」というものでした。文覚にとって西行は、修行もせずに悠々自適に生活しているだけの者と映っていたのでしょう。「どこかで出会ったならば、頭を打ち割ってやりたい」と思い巡らしていました。

 その西行が、ある日、文覚が住む高雄山の法要にやって来たのです。花を愛でながら歩く西行の姿を、日頃から文覚の計画を聞いていた弟子たちは遠くから眺め、西行の訪れを決して師に知られてはならないと思ったのでした。そんな中、法要が終わって文覚が坊(僧侶の住居)に帰ると、何も知らない西行が一夜の宿を請います。文覚は手ぐすねを引いて部屋に招き入れたのでした。

 西行の様子をしばらく観察した後、いよいよ文覚は西行と対面します。すると文覚は日頃の勢いはどこへやら、丁寧に挨拶をし、食事を振る舞い持てなしたのです。翌朝も斎(寺の食事)を勧めて帰したのでした。

 弟子たちは一部始終を、固唾をのんで見つめていました。何事もなかったことに安堵しつつ、その理由を聞いたところ、文覚は次のように答えたと言います。「あの者(西行)が文覚に打たれるような顔つきか。むしろ文覚こそ打たれる者である」と。

 文覚は実際に西行に会って、これまでの邪見(誤った考え)が消え去ったのです。修行を重ねた文覚であったからこそ、西行が単なる俄道心(急に思い立って出家をした人)ではないことを一瞬のうちに見極めることができたのでしょう。

 実際、西行は厳しい仏道修行を行っていました。それは例えば、次の歌に見ることができます。
    三重の滝を拝みけるに、殊に尊く覚て、三業の罪も濯がるる心地しければ
  身に積もる 言葉の罪も あらはれて 心澄みぬる みかさね三重の滝
                               (『山家集』雑)
 この歌は、西行が若き頃に、大峯山中での修行の折に詠んだものと言われています。歌の前の詞書には、「三重の滝を拝んだところ、とりわけ尊く感じられて、三業の罪も清められる心地がしたので」と記しています。

 少し難しくなるかもしれませんが、仏教では、人間のあらゆる行為を「業」と言い、特に身体の行い(身)、言葉の活動(口)、心の働き(意)の三つを「三業」と言います。

 歌では、「私の身体に積もった言葉の罪も、三重の滝によって洗い清められて、心が澄み渡ったことよ」と詠っています。

 注意深く見てみると、歌の第1句「身に積もる」の「身」、第2句「言葉の罪も」の「言葉」、第4句「心澄みぬる」の「心」とあるように、歌の中に「身・言葉(口)・心(意)」の三業が詠み込まれているのがお分かりになるでしょうか。

 中でも、第2句に「言葉の罪」として口業の罪を詠んでいることからも、西行の心の奥底には言葉に対する罪障意識があったのでしょう。それは、歌人であり僧侶であった西行にとって、他の身業や意業と比較しても、ことさら強いものであったと見ることができるのです。

 西行も文覚も、滝行などの修行によって、自らの煩悩(心の垢)を洗い清めていました。さぞかし気高く清廉なお姿をしていたことでしょう。そのような二人だったからこそ、生き方や仏教に向き合う姿勢は違っても、通じ合い、親交を結んだのだと思います。

 高尾山にも、蛇瀧・琵琶瀧という2つの瀑布があります。私も滝行をしましたが、恥ずかしながら始めは言葉が出ませんでした。お経を唱えようとしても、真夏の冷気(霊気)と清冽な水流に圧倒され、水が口に入り込み、思うがままにならないのです。しばらくすると、流れに身を任せるようになりました。すると次第に、心が無心になっていったのです。

  ああ尊いかな、信心の諸衆、身を浄め、心正しうして、
    本尊飯縄大権現の御前に礼拝し、

 これは高尾山薬王院の縁起の一節です。高尾山での毎日のお護摩の中で、耳にされた方もおられるでしょう。身を清めることは、心の正しさにつながります。

 優美な西行と豪快な文覚という水と油のような二人も、お互いに宿る「仏心」により、己の「好悪」を超越したのです。日々、自身の煩悩を洗い流し、真に流されることのない仏の心を見つめてみたいと思っています。
 
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最後までお読みくださりありがとうございます。


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